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 投稿者:衝撃事実拡散  投稿日:2016年 8月 7日(日)19時48分7秒
  衝撃事実拡散

公明党(創価)が、一般人や学会員を病気にしたり、事故に合わせたりする、危険な組織だって事が世間に知られてないので、拡散させてます

犯罪組織を特定して、拡散していく事で、この犯罪は減って行きますから、メクラ滅法にバラまいて、世間に浸透させてます

この犯罪の主犯各は、米諜報機関(スパイ組織) のNSA(米国家安全保障局)です

創価が、米諜報機関CIA (米中央情報局)の下部組織ってのもあって、これは『NSA』っていうスパイ組織が、創価の悪事に便乗して、創価になりすまし、創価を利用してやってる犯罪です

公明党が与党になってから、精神科、心療内科が急増、障害者手帳を持つ人が急増、向精神薬の売り上げ急増、教師の長期休暇急増、精神障害の労災請求者急増。何十年にも渡って、人知れず多くの人に災いを与えて来た政党が、公明党(なりすましのNSA )です

多くの人を病気にしてるのに、この犯罪が、世間に漏れ出してない理由は、遠隔から私生活を監視盗聴して、生活に沿った病気や痛みを与えて来たからです。重い物を持ったら腕に痛みを与えたり、ツラい事があったら鬱にしたり等。相手に覚られず、任務を遂行するスパイ組織が主犯各なんで、私生活に便乗して、違和感を持たせずにやります

この犯罪は、人工衛星を使ってやるので、地球上のどの地点にいようと、どんな建物の中に入ろうと、継続的に、監視追跡出来ますし、どこに居てもピンポイントで、痛みやカユミや病気を作れます

NSAは、生き物を意のままに操る技術も持ってますしし、痛み、カユミ、病気を作り出す技術も持ってます

NSAは、気象を操作して、大雨を降らす事も出来ますし、地震すらも人工的に作り出せます。東日本大震災や熊本地震もこいつらの仕業です

【重要】青森県三沢基地には、 NSAの電波傍受(盗聴)施設がありますし、世界中に通信傍受施設を配備してるので、地球上のどの地点にいても、ケータイやPC等の通信機を介して盗聴します。通信機は、電源オフにしてても盗聴器になってます

NSAは、遠隔神経監視(リモートニューラルモニタリン
グ)技術を使って、世界中の人間を監視してます

地球上の人を監視盗聴して、その家庭の家族構成、生活スタイル、家庭環境等の情報を取り込んで管理し、創価の用途に応じて、それに適した人間を瞬時に選び出して、功徳や仏罰や嫌がらせに利用します

創価のオハコ芸、ノイズキャンペーン(騒音の嫌がらせ)は、救急車のサイレンで嫌がらせする為に、重篤な患者を作り出しますし、パトカーが付きまといをする集団ストーカーは、警察に通報させないように、警官を操って、いかにも警察が嫌がらせしてるように、工作します。警官は、自分が操られてる事に気付いてません。これらは全国でやってますから、警察関係者は知らぬ間に、多くの人に恨みをかってるって事です。警察の内部事情は全て筒抜けで、パトロールに行く時間も全て把握してますから、それに便乗する形で警官を操り、定規で測ったかのような、神懸かった抜群のタイミングで集ストします

行く所行く所で周りの人が咳払いしたり、くしゃみをしたりする集団ストーカーは、被害者の周りの人に波動を当てて、咳払いやくしゃみをさせてるだけです。いかにも集団でストーカーしてると思わせて、心理的負担をかけてるだけです

咳をした時の周波数と同じ周波の波動当てると、人為的に咳を出させる事が出来ます。例えば、TBSラジオ90.5MHz(メガヘルツ)、ニッポン放送93.0MHzに周波数を合わせると、これらのラジオを聴けます。これと同じように、食欲が湧かない時の周波数、眠れない時の周波数って具合に、それぞれの周波数と同じ周波を当てると、ラジオが切り替わるように、その状態に切り替わって、意識操作や精神疾患を作り出せます

生態の周波数コードを読み取って、脳波パルス信号に、同じ周波数を送ると、波動が共鳴して、その状態に切り替わります。例えば、人が右に曲がる時の周波数コードを読み取って、その周波数と同じ周波数を送ると、いとも簡単に右に行かせる事が出来ます。これを利用すれば、警官を操って、パトカーに集ストさせる事も、たわいないです。好き嫌いの感情、食欲等を操る事なんか、造作もないです

例えば、蛍光灯に虫が集まるのは、ある決まった周波数の紫外線に、吸い寄せられてるからです。逆にいうと虫ですら、周波数で操作が可能って事です。昆虫類は、それぞれが違った周波数の光に誘引される性質があるんで、どんな虫でも周波数を変えると、自在に操作が可能って事です

創価が仏敵によくヤる、家の中に害虫を呼び込んだり、カラスを屋根の上に集めて暴れさせたり鳴かせたり、犬を吠えさせる嫌がらせも、科学技術を用いてヤってます

ちなみに、27~38Hzで不眠に、48~55Hzで喘息に、50Hzで生理痛、52Hzでてんかん、60Hzで痙攣、88Hzで片頭痛が引き起こされます。それぞれの病気が、それぞれ決まった周波数を持ってます。これらの周波数と同じ周波を当てれば、どんな病気でも作り出せるって事です

特に、公明の支持母体、公明の栄養源である、創価の活動家には、頻繁に災難が降りかかるんですけど、信者は皆、魔(仏罰、現証、非科学的な原始的発想)にヤられてると思ってます。災難が続くと、信者は仏にすがって、学会活動や選挙活動に精を出すようになるので、定期的に科学技術で災いを与えます。モチベーションを上げさせる為の、起爆剤みたいなもんです

この世の病気、痛み、カユミ、争い、自殺、殺人、墜落事故、交通事故、火災、自然災害、ありとあらゆる災いを作り出してる組織がNSAです

剛力彩芽のなりすましが、「北川景子貧乏くさい」「忽那汐里は虫みたいな顔」等の中傷をTwitterでしてましたけど、SNSやネット掲示板等でなりすましする人は、暴言吐いたり、荒らしたり、やりたい放題やります

相手の着ぐるみ付けてヤるので、中傷しても責められのは相手のみ、後で自分が責められる事は無いです。人は、身元が特定されず、罰則をくらわないってわかると、理性のタガが外れて、やりたい放題やる生き物って事です

現実社会では、面と向かって中傷する人は少ないですけど、ネットの中は、暴言や中傷だらけです。顔が認識出来る実社会で中傷すれば、特定され、後で責められて酷いめに合うんで、中傷がやりづらくなります。ネットの場合は、顔も見えないですし、匿名性ゆえ不特定多数の中に紛れ込めるんで、後で責められる事も無いです。だからネットは、誹謗中傷の温床になってます

創価の着ぐるみつけたNSAっていうスパイ組織が、創価になりすまし、悪の限りを尽くして傍若無人な振る舞いが出来るのも、後で自分らに火の粉が降りかかる事が無いからです。こいつらに火の粉が降りかかるようにしないと、際限無く悪事を働くので、NSAの名を全面に出して広げてます
 
 

日本映画終焉の十五年

 投稿者:釣崎清隆  投稿日:2016年 4月13日(水)20時38分43秒
  信じたくはなかったが、どうやら日本映画は死んだ。とっくに死んでいる。もはやそう断じざるを得ない。殺された。苦い現実を認めるところから始めねば、実態の深刻さは実感されないものだ。認識と立場を当時者として明確にし、日本映画を殺した責任を自覚しなければ、日本映画界に復活はないだろう。
業界では、何も日本映画の枠組みにこだわる必要もないだろう、と映画が目されてきた総合芸術としての統一性や国際性、また映画言語の共通性、映画文法の汎用性という特性から、国籍の意味に重要性はない、国境を越えるメディアである映画を引っ提げて世界へ積極的に飛び出し、己の自由な表現を国際舞台で問おう、という思潮は広く信じられているし、僕自身も基本的に賛同するものだ。
同時大量頒布が可能な大衆メディアである特性は映画を大衆扇動、つまりプロパガンダの宣伝洗脳装置として権力層に頗る効果的に運用されたが、それは映画メディアが作家にとって直写的で直接的な、伝達機能としては強烈な理想的表現手段であるということがいえる。僕が最安予算で最高の被写体を獲得するために選んだ方法は、世界で最も危険な地に一歩踏み出して最高の被写体までの道のりを一歩踏みだし、また一歩というガッツ・メソッドである。機材の進歩は撮影システムを堕落させたが、世界のエッジへ一歩踏み出しさえすれば最高のロケーションに巡りあえる、その一歩のための身軽な態勢は技術革新のたまものであり、逆にかつては絶対に撮れなかった作品を提供しているという自負の源泉となっている。システムはある程度再構築できるだろう。パスポートサイズのカメラ一台で劇公開映画を撮れる表現可能性の伸張が僕にもたらした恩恵は計り知れず、テーマとは多少ずれることになるが、誰がなんと言おうと僕はこの時代を絶対擁護せざるを得ない。
ここで筆者が主張したいのは、表現者の自由な表現を担保する無限の選択肢による多用な表現可能性である。また、現実世界を自然に直写したり、利用して演出したりする手続きは社会の人間の生活行動、人生そのものの一場面であるからには、並行世界を創造するような完璧な演出など困難であり厳密には不可能だ。現実の断面を〝直写〟という表現は撮影者の介入が現実を変質させるため正確には詭弁であり「自然な」表現も不可能である。その無限に可能なショック故に映画とは作家として表現の自由の問題に過敏なまでに敏感であらねばならないメディアに違いないのだ。
 我が祖国は〝民主化〟と呼ばれた七十年にも及んだ矯正治療と再教育のプロセスで、タブーを戦前よりも明らかに日ごと増産し続け、日増しに表現の自由という神聖な権利を制限し続けてきた。あまつさえ、この国の報道界や表現者、特に「進歩的」と呼ばれる文化人が率先して上からの言論統制、焚書坑儒を求め、言葉を狩り、自ら己の首を絞めにかかって、ついに偏狭な独房を拘束衣にスカルファックよろしくタナトスの本能を飽和させた母胎回帰の安定的自殺の最終段階にある。
 〝差別〟とは愚劣な蛮習であるが、使用を禁ずるのはいかにも敗北主義であり、偽善であり、発展的でもない。それで逆差別のオルタナティブを生んでしまうのなら、偏見の醜悪を犯さぬよう表現者は精進錬磨してきた美意識の強靱に訴えるべきだ。いわゆる差別問題の本質は、共同体間のディスコミュニケーションに起因する無知由来の悪趣味であり、不寛容のドグマである。教条主義は必ずしも知的退廃や思考硬直を意味するものではなく、つまり問題は無知の大罪に帰するのである、差別が諸悪の根源なのではなく、むしろ偽善的な平等意識こそが悪性で罪深いのであって、結局そのぎこちなくも怠慢な社会はディスコミュニケーションの退廃的温床となり、無知の俗悪が汚染爆発することになるのだ。またいやしくも人間たるもの憎悪の表現を捨てるは退化であり、芸術への冒涜に他ならない。
 翻れば〝自由と平等(奴隷の自由と悪平等)〟の戦後日本において、芸術家、作家、クリエイターがとことん軽薄なシニシズムに堕し、問題意識の意義すら喪失した表現者の中にタブーに挑む者がなくなり、もはや絶滅してしまったのだという。決してアイロニーではない。事実だ。
 故にヘイトスピーチの法的規制を求めるなど愚の骨頂、表現規制上奏の自殺行へ無自覚にも自ら積極的に邁進するとは欺瞞的マゾヒズムの極みだ。理念なき動物反射的表現者はその主張の愚かな思考停止、悪しきドグマティズムに危機感がないのである。想像力が貧困、というか脳の半分があたかもモザイクやクロマキーで閉ざされているようだ。
 切迫した違法行為としての差別など存在しない我が国において、反差別法の制定動機は真の国史の奪還を阻止し、東京裁判史観を恒久的に固定化することにある。
表現の自由は神聖な権利である。暴力を恐れるな。反差別や非暴力の欺瞞の裏から、戦意喪失した日本の姿を今か今かと待ちわびている悪意の所在が、食人種の熱い眼差しの収束によって顕在化する。
主権国家の理念は自由と独立である。どちらも生半可な正義感などで絶対に制限してはならない。自由と独立の若干制限は自律的ではないし、世界平和寄与でも決してない。それは薄汚い××××だ。
 どうにも自縄自縛に陥ってしまい虚勢を張ってしまう愚者による破廉恥な傲慢に対する、己の無自覚という大罪を、現在日本を代表する中核映画監督のほぼ全員が犯している。批判弁証法を徹底したカリカチュアの、日本人ならずとも眉を顰めざるを得ぬ過激な挑発表現で政治的暴力の危険に晒されながら、それでも極左言論運動を貫いてみせる『シャルリ・エブド』の筋の通った闘争姿勢を、日本の言論人も少しは見習えないものか。対案も何もなく取材対象をひたすら否定し叩く方法論は戦後、日本の進歩的文化人も導入し現在なお有力な左翼ユダヤ思想的言論運動として説得力を持っているが、やはり和を尊ぶ日本人の精神性に適うものでなく、思想的理解を欠いたひとつの弁論技術として受容されたが、欧州大陸においては、あれはあれで殉ずるに足る理念として知的信奉を受けており、その思想的一貫性は一定の尊敬と支持に値するとの評価だ。かえってまさに戦後日本的賢者の偏狭で傲慢で非理性的、かといって精神的でも何でもない〝猿人的グロテスク〟を浮き彫りにした。そして国民誰一人として公正で自由な普遍性を信じて疑わなかった、実に危険極まりない戦後思想的思考回路の罠に絡め取られてその奈落にもろとも、無自覚に事も無げに見事陥落してしまったのは、何も閉ざされた言語空間だけに原因を求めるべきではなく、問題意識を置き去りにして経済的繁栄に邁進してきた国民、振り向けば自らに嫌悪感を覚えるほど異常に平準化した国民、つまりは大衆化し愚民化した戦後知識人の重大責任に致命的に帰するのだ。
 映画監督である筆者は、ここで今世紀の日本を代表する映画監督、今村昇平、山崎貴、周防正之、坂本順治、山田洋次、三池崇史、李相入、園子温、塚本晋也、宮崎駿を、彼らが今世紀に撮った作品のうち象徴的な一本を取り上げて日本映画の死について論じたい。二〇世紀をもって日本映画は命脈が尽きたと判断せざるを得ないのだが、ミレニアムを挟んだ断絶は鑑みるに不思議な現象である。相変わらず日本社会は極めて安定的で、前世紀末と現在で際立った相違を見いだすことは難しく、社会不安、低迷の一要因であろう経済社会の不景気にしても前世紀末から延長された現象であって異論の余地なき明白な歴史的分水嶺となった3・11までの十五年間にはなだらかな没落が見出せるだけだ。しかしながら、まるで才能ある作家が集団自殺を遂げたかのように、または忽然と蒸発したかのように、日本映画は憤死したのだ。
それをマスメディア全体の死の一現象ととらえる見方も可能だろう。
 歴史的経緯を紐解けば、マスコミが遠の昔から何も自由にものを言えぬ立場にあった事実に容易に突き当たる。朝日新聞が米中主要紙の影響下で社内革命を成功させた労働組合支配の反日工作機関であり、日本テレビがそもそも成因から既に米国のプロパガンダ戦略、対日謀略を目的としたCIAの出先機関というのは隠れもない事実だ。
 以下は当該マスメディアの当事者本人に聞いた事実である。現役社員のほとんどは、きら星のごとき高学歴揃いだというのに怠慢にもそんな勤め先の歴史を知らない。また怒濤のごとき反日報道を繰り出す記者は、キャップ、デスクに至るまで、実は驚くべきことに、国益に適わない反日的社論を扇動する世論誘導、記事捏造、偏向報道などの陰謀論は濡れ衣であり、報道機関の責任に照らして正しい真実の報道を心掛け実践していると、信じており、占領期にGHQが全マスメディア埋設した三十項目におよぶプレスコードの呪縛や〝謝った〟歴史認識を巡るドグマ主義、スパイ防止法成立の阻止、日本国憲法、中でも第九条の死守や改憲的政治行動の監視、批判は自明なる無条件の正義により徹底攻撃と、いわゆる典型的左翼的利敵行為の正当性を信じて微塵も疑わず、強引に国民をミスリード、洗脳を施しているなどと知能指数を疑うほどに、戦慄するほどに、その自覚がない。〝自覚のない代理人〟、ジャーナリストがそのように悲劇的な道化を演じ、外国インテリジェンスに操られ自分は誰もが疑いようのないまったき正義をやすやすと遂行できる自惚れとは裏腹に、そのつもりもなく間抜けで卑劣なスパイ行為を働いてしまう無様など、己の本質的軽薄さなど、気付いた時が大罪を働いた後だ。
 映画監督の思い上がり、内向的追究しかやったことがない、世にも下品なテレビ視聴という方法でも十二分に有効な〝洗脳〟がなり、世にも怖ろしくも白痴極まる〝洗脳全能〟が同胞を浅薄で出来の悪い、稚拙さがかえってリアルと映ったかいずれにしろ文学的でも音楽的でもない、ただただ徹頭徹尾家畜人ヤプーから募ったリクエストを古い順に並べたかのごとき、危険すぎるほど誤った民族史を反射的獣性で無責任に裁き、酷くも見るに耐えぬグロテスク描画で断罪してくれる。お前は達観した天才や越境者などではない。ただの裏切り者だ。裏切り者には死が待っている。
もはや謙遜を遙か越境した卑屈に堕す美意識の戦略的愚鈍という有史以来の亡国危機へ至らしめる新時代のハイブリッド戦争が既に勃発した常在戦場としての我が国に可視化し、秘密戦術が暴露、顕在化したがごときインテリジェンスや拷問実務のエキスパートの業と疑われる精妙な手さばきの衝撃的インパクトだ。全体主義へ導かれる焦臭い同調圧力は、虚無的無為の時間経過によって堅固に踏み固められる。戦争映画不在の二十年でもあるこの失われた二十年とは、戦争表現を真綿で締めるがごとく緩慢に、それでいてがんじがらめに縊死させた、つまり東京裁判史観および歴史修正主義の禁忌の確定を地層化させる地質年代的一世代の意味を持った。我々日本人は謙譲の美徳を一貫して付け込まれ外国勢力の陰険で執拗な攻撃に全く抵抗する術を持たなかった戦後史の知的無策を猛省すべきだ。美意識の退廃に至った現在にあっていい加減自画自賛というカウンター言論、ホワイトプロパガンダ戦略による劇的意識的抵抗で先人の名誉回復を図る大国民運動が必要な次元にまで急迫している。もはや怪しくも劣化しむしろ言い訳に頻用してきた〝美徳〟を捨てて臨戦態勢に入る決意を迫られている。歴史認識の修正や倒錯ではない。日本の真善美や歴史的総体への裏切り行為を一刻も早く止めよ、偽善意に基づいて事実上放棄してきた重大な罪と責任を負えということだ。人間としての普遍的良心に照らして世界歴史に対峙する表現者としての態度を考えよ。進歩的虚無主義で輪廻の打開を試みない愚かな超人は現象として滑稽な存在である事実に、趣味のよい知識人ならば、決して言葉ありきでなく繊細な感受性を誇る表現者ならばさっさと覚醒せよと申し上げている。

二〇〇一年の画時代的イベント、いわゆる9・11で図らずも噴出したのは我が国の〝空洞〟だった。映画界の反応として世界第一線のシネアスト十一人が選抜され、中でも三顧の礼をもってそのオムニバス作品のトリを飾る名誉にあずかった今村昌平が『11’09”01/セプテンバー11』(二〇〇二年)で世界に提示したのは、なんと半世紀以上前の日本の戦争犯罪の糾弾であったという、目も当てられない無惨な勘違いの表明であった。9・11の謀略に米猶の期待通りお墨付きを与えたばかりで、アジア側の言論はおろか個人の意見すらただの一言も発しなかった〝社会派〟の巨匠の作品は、さぞかしサミラ・マフマルバフを落胆させたのではなかろうか。傾聴すべき賢者の言葉は実際のところ傲慢で、9・11同時多発テロには従来の紛争と比して特筆すべき点はなく、神風特攻をただ模倣したにすぎないオサマ・ビンラディンなど昭和天皇の「悪辣」に比べれば小物だと言わんばかりの秘めた本音に曲解されかねない。我々は表現、説明能力すら無くしたのだ。奇しくも題付けられた「おとなしい日本人」とは、日本映画の特殊事情で何十年も思考停止のままでもやってこれ、二度のパルムドール受賞にあぐらをかいてふんぞり返っているだけで、世界の精神的危機に対し気の利いた言葉の一つも発せず、とうとう遺作で無残な馬脚を現してしまった「狂気」を忘れた今村当人のことだ。
アノミー的世界の両端にありながら悪意だけは鋭くも確実な直進性をもって肉薄する。
マフマルバフは不条理を不条理と認識し第三次世界大戦の可能性まで啓発する。今村や日本映画が混沌に潜伏する悪意の所在に対する問題意識のあまりの欠如を憂慮する以前に、第三次世界大戦は今や想定すべき未来像であり、イランの賢人は十一分九秒という自明の切れ味でハルマゲドンに備えている。これを滑稽な寓話と捨て置く感性が最悪に愚鈍なのだ。アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥは投げやりとも不謹慎ともとれる挑発的表現でメキシコ的抵抗を示した。『アモーレス・ペロス』(二〇〇〇年)を亡くした息子に捧げる作品であるとして曰く、「人は失ったもので出来ている」日本人は失ったものを知らない。英霊に聞いてみるがいい。だが日本人は英霊を置き忘れ、喪失し、それを知らない。戦争映画も作れない。
世界的表現者は世界の本質を知っている。もしくは表現者たらしめる鋭敏な勘で正解を選び取る〝目〟を持っている。ぼやぼやしてたら日本を日本たらしめてきた過去の遺産はもはや尽きた。むしろキッチュな異形を尊ばれるほどに浮世離れしてしまった。常識外れでも強力であれば問題化しないが、国力指標以前に我々は国民として肉体的精神的に明白な弱体化を喫している事実を認めなければならない。
日本映画の惨状を見よ。もはや日本人は出演に値する佇まいを持っていないし、たとえ被写体が揃っても映画監督に演出の体力がない。既述の通り映画の変質が避けがたい趨勢を進歩的映画史へ導くことが急務だ。

デフレに喘ぐ日本における〝時代の寵児〟山崎貴は市場原理主義の論理において誰も太刀打ちできぬ低予算のグロス請負で安定的生産ができる優秀な映画経済人であるという点で評価に値しないフィルムメーカーである。かつて大作映画はゼネコンの土建現場を運営する能力が求められ、中立的で毒のない佳作監督か、労働組合を束ねる豪腕肉体労働者の現場監督が演出に起用されたものだが、今やプラットホームが机上に完全集約されるという劇的な様変わりを遂げ、文字通りの空論を拡大再生産する世も末を呈している。その状況に痛くも痒くもない愚鈍さと一定の高付加価値を安定供給するスマートさこそが求められ、従来の大量消費的大衆文化の産業的宿命上それ以上でもそれ以下でも存在理由を定義できなかったのだが、現場感覚/現実認識の貧困を生む技術革新により画期的な個人映画時代に開拓者の巻き返しへ転じる歓迎すべき構造変化局面にある実態だ。
筆者は流血表現がない『永遠のゼロ』(二〇一三年)を戦争映画と呼ぶことは不可能だ。『パール・ハーバー』(二〇〇一年)も同様、戦闘シーンは机上の描画物であるため、モニター上に血を塗る作業自体は造作ない。表現倫理上の要請、また流血表現が眼中になく興味もなく、そもそもその構成要素としての実存に気付いてないなど、とにかく描出の必要を認めなかった仕上がりに不自然さを感知しない山崎が、デジタル技術で郷愁を表現できるほど優秀な監督だと思わないし、スティーヴン・スピルバーグ一生の不覚映画のそれと同じ横文字タイトルを原作漫画由来の原題の前にわざわざ添え冠した作品に一定以上の評価を与えられている事実こそが、日本映画とその観客のあらゆるレベルにおける恐るべき劣化の事実証明であろうかと考える。
現在の我々にとっては情報こそが唯一の打撃的武器になるはずが、マスメディアとの対決を市民に可能にした情報イノベーションという時代の天啓を受けながらも、巧みに封じられるシステムの発動が起こる。情報技術の重要性を認識するならこの誤作動を断ち切ることだが、情報コンテンツの性質と日本人の美意識に抵触する行動様式にはアンビバレンツが生じるリスクがあり、新時代の要請に応じて意識的に速やかに突破する必要があろう。
国体を護持する機能を持たないが故の悪影響の噴出に皆なぜこうも鈍感でいられるのか。無防備な身が悪意と対峙した場合に働くものは防衛規制、異常な自己規制しかあり得ない。意味不明の護憲圧力もそんな動機からであろう。難物なのはその絶対的巨塊のイノセンスを下手に強権で刺激したら悪質な集団ヒステリーが発動するのではないかという懸念であるが、そこまで日本人は愚かでないと信じたい。
嘘を信じ込まされ騙され続けそれにコミットさせられたがために陳腐に育まれた思想の軽薄。自己完結のくせしていかにも不自由な表現。了見の狭小と問題意識の欠如。健全な日本的良識があれば、その違和感に、怪しいと、繊細で精妙な美意識が許さないはずだ。全体主義へ導かれる同調圧力は、無為の時間経過によって堅固に踏み固められる。戦争映画不在の二十年でもあるこの失われた二十年とは、戦争表現を真綿で締めるがごとく緩慢に、それでいてがんじがらめに縊死させた、つまり東京裁判史観および歴史修正主義の禁忌の確定を地層化させる地質年代的一世代の意味を持つ。

周防正之監督『それでも僕はやってない』(二〇〇七年)で切り取られた日本社会のディスコミュニケーションの問題は、映画化するスケール上の意義を疑うほど危うくも脆弱で、悲劇的なほど白痴だ。〝情報〟を扱い操る産業レベルにない。まさに痴漢電車における忌まわしく平凡な沈黙そのもので、腐敗文明の極めて原始的かつ幼稚な昆虫的交信だ。
しかもかくのごとくものの価値の判断音痴な様子である映画監督ふぜいが現在司法への市民参加にかかわる会議に立派な有識者さまであるというこの国の、知的、社会的脆弱性には嘆息させられる。等身大の正義などで誰にも迷惑いがかかる影響力もないわけでいい気なものだ。それこそが選択すべき道だと胸を張るが、対立概念としての正義は問題を避け得ないわけで大きな責任やリスクを嫌う臆面ない事なかれ主義の延長なのである。
戦後日本人は自明の絶対的正義を持たず、個人の自由において己の正義を選択する勇気も喪失した。〝正義〟に恐怖さえ抱く戦後日本人の内奥にある空洞は米軍の大量破壊兵器によって開けられたとてつもない大穴であり、戦争の大義は日本人の反軍、反国家への傾斜を促すと同時に正義への無条件な志向という人間性そのものを機能不全にして人間の尊厳を腐敗せしめ、最も深刻なことには善悪の感覚を致命的に鈍重にしたのだ。この民族精神が負った傷は、日本人の先天的鋭敏さにより、ある程度の修復を見たとしても、高度な精神性を要求される芸術科にとっては果たしてどうか?
それでも退廃した戦後日本人にあってもあいかわらず道徳的行動、順法精神は世界一であるが、もしかしたらそれも戦前日本精神の残滓が体性反射として保存されたにすぎないかもしれない。むしろ呪わしくは満州で支那人が法匪と嘲笑うほどの法治原理主義など跡形もなく粉砕してしまえばよかった。現在もなお有効に〝法律戦〟上の法則として機能し続けていっこう改善されぬ体性反射、あまりにも愚鈍すぎてあまりの人間性の劣化ぶりに絶句である。事実が、真実が伝家の宝刀として通用する世界は当然のごとく幻想であるし、理不尽な現実として本作品に描かれる絶望は映画化するにはいかにも鼻糞レベルであり、これをデフレの産物というのだろうか、それがネガティヴな傾斜であったなら佳作とはとは原理的に呼べないのである。人間の名誉とはいったん自らの手で捨て去ったならば、既に現実世界に対する抵抗の権利を放棄したものであり、なおかつ回復を目指すなら敗北を噛みしめつつ名誉回復という目的へ苦行的邁進する人生の方がいくばくかの美しさがある、と個人レベルでは言いたくもなるが、現実社会においては抜き差しならぬ〝慰安婦問題〟のブラック・プロパガンダには、初期段階の徹底的抵抗が外交紛争の死守すべき戦術であるのは無論のこと、例えその失敗に際しても国家が謝罪/土下座/安易な妥協といった敗北主義を絶対にとってはならずホワイトプロパガンダの周知と国民的絶対反抗運動を実施すべきだ。それ以前に、身の潔白、領土帰属問題を公文書や史料といった真実の主張によって法治主義的解決を求めるのは、相手が中共では馬の耳に念仏というか、より大音量の怒声で黙らせられたら真実など無意味な紙くずに帰するわけだ。
きっと身の丈を知る「戦う市民」は、それほど大事に考えておらず、まさに折れる寸前だった己の尊厳を、等身大の正義を目覚めさせて、それは矮小すぎて正義というより反射、真実というより中有のセカンドユニット格の事実の不毛な洗い出し、それも決して正確とはいえず、原理的に確かだとしても退屈な実相とは遠い。事実、可視的なるが故に退屈な集合的無意識に埋没した中で、女性の下半身がどの位置で被疑者の手がどの恐れ位置かなどあくせく実験して、実に凡骨な人生だとは思うが、それが案外に人生の抜き差しならぬ巨塊を占めているのだ。
だが、眼前の異状に目が眩んで己の名誉の切り売りという我が国の中産階級ならいかにも軽視しがちな危うい餌(ベイト)に食い付いて留置所を出たい一心でつまらぬ妥協をしないで、早く出たところで痴漢の汚名を着ていては意味がない。自分は被害者ではないか、と冷静に考えを整理できて、緘黙で留置所に満期の二十八日間勾留されておけば、名誉は少なくとも己の真実と尊厳に懸けて守られ、さすれば付随して起こりうる社会的問題など観念的にも実際的にも、ものの数ではないのだ。
愛する伴侶を強姦されたら、コロンビア男ならば己の手で犯人を殺す。家族も成就するまで帰宅を許さない。そして犯人が殺されたなら、今度はその犯人の兄弟が復讐犯を復讐する義務を引き受ける。意地と意地が臨界、衝突し続けるのが現代においても「復讐人種(ラサ・ベンガティバ)」の流儀である。ラティーノにとって身内を裏切ることこそが絶対悪であり、象徴的な拷問死を避けることを絶対許さない。殺人は敬虔なカトリックたるコロンビア人にとっても教義的にも法律的にも重罪であることに変わりない。極端な例を挙げているわけだが、しかしそれでも殺人という行動はその意味と責任の重大性を引き受けた大人の男の選択肢なのである。この野生的戒律は人類共通の掟だと筆者も信じている。筆者は死刑反対派であり、コロンビアは世界で最初に死刑を廃止した国である。

坂本順治監督作品『闇の子供たち』(二〇〇八年)における人間性に対する侮辱は看過できない。人間存在の闇を抉る社会派が、事実誤認と現状認識に対する勘違いにより、世界中の闇から糾合するペドフィルによる性的搾取の被害者としての少年少女を、無自覚に侮辱する先天的自虐意識、問題意識の源泉が陳腐な反日意識、日本を劣等な残酷変態民族とする信仰を背景とする、タイ人に対するセカンド、サードの重層的強姦、恥ずべき悪質な無垢による卑劣で救いようのない裏切り、レイシズムと呼んでよい大罪を無自覚に犯してのける無残な汚物だ。タイはかつてバンコク中心部中華街ですら安易で安価に幼児を求めることができた国恥をそそぐべく二〇世紀末、国家の威信を懸けて幼児売春撲滅を決意し、その断固たる取り組みで劇的成果を上げた。だが幼児売春自体は撲滅されずその拠点はカンボジア等タイ隣国の国境地帯へ駆逐され、さらに今世紀に入っても国際協調的努力によりシーンの規模は縮小し続けている現状だ。八〇年代に幼女売春のメッカを返上したフィリピンや中南米と同様にタイ、カンボジアでも正義は曲がりなりに行使され、本作が公開され厚顔無恥にもバンコク国際映画祭への出品で(エンタティンメント演出による)痛みを伴う絶対正義をもって告発しようと目論んだ二〇〇八年においては、近代国家の資格に大きな傷病を負うこの問題を重く見て国家の威信を懸けて駆逐することに成功した忌まわしい過去を、あたかも現在進行形の残酷悲劇であるかのようにタイ人への屈辱的贖罪という朝鮮半島対応でしか通用しない趣意を込めてプレゼントしたのだ。しかも、事実としてタイの幼児を毒牙にかけた外国人はドイツ人であって、彼らの多くにはSM虐待趣味があった。彼らの払拭されぬ人種差別意識が筆舌に尽くせぬ悲劇をもたらしたのが真相だ。確かに日本人の客は少なからず存在した。しかし彼らの多くはいざ幼児を目の前に良心の呵責から性行為に至ることすらなく、中には身請けして売られてきた故郷へ帰したうえ、幼児の一族ごと経済的に面倒を見る例があった。それも二例や三例ではない。
実は筆者は一九九〇年代に日タイ地下コネクションとも呼べる闇ブロケージ業界から接触を受けている。日本において当時合法的に出版されていた成人向けロリコン雑誌のグラビア用にタイ人幼女のヌード写真を提供している日本人移住者が、筆者がエロ雑誌に連載を持つ死体写真家だと聞いて、金のにおいを嗅いだのか、民間レスキュー経由で入手した死体写真を営業してきたのだ。彼は日本のエロ本出版社から得た報酬で、モデルである複数のタイ人幼女を家族ごと養っており、東北部イサンの寒村の名士として君臨していた。
このようなタイの共同体との日本人移住者濃密な関与は、歪んではいるが円満な合意の元の関係を取り結んた結果であるという。だが筆者は胸くそ悪さを抑えきれなかった。筆者は作家であって他人の撮った死体写真など必要としているわけがないし、何より日本人に近い色白なタイの女児にランドセルを背負わせブルマを穿かせて、悪質な虚構と残忍な粗暴に彩られたファンタジーの悪趣味に軽蔑を覚えた。かつてロリコン雑誌に寄稿した経験もある筆者にとって、既に議論を呼んでいた微妙な表現にとっては美意識の欠如が致命症となることを危惧せざるを得なかった。タイにおいて日本人に卑劣な幼児買春が皆無だったとは決して言わない。事件化されメディア上で取り上げられた案件も複数認知している。しかしタイ人は揺るぎない親日国民である事実は今も昔も変わらず、マッサージ嬢の日本人客に対する好印象は格別である。人間同士として下にも置かない敬意を示してくれる割に行為が淡泊で金払いがよい。日本人客は幼女を相手にしてもやはり彼女にまず人間、女性として敬意を払うことだろう。そうあってほしいものだ。
つまり、ラストシーンのプロットは大不正解。蛇足を超えた人間、日本人への冒涜であり、ひょっとすると、恥ずかしい信仰告白にもなりかねない。

山田洋次監督作品『東京家族』(二〇一三年)には戦後民主主義、反日イデオロギーの断末魔または死臭を嗅ぐ。嘘を信じ続けた結果生じた存在の軽さに気付いた瞬間に耐えられない孤独の怖気に襲われて、もはや遅すぎに失してしまったからには呆然とするほか仕方がないインテリゲンチャである。残念なのは紛れもなく才能に恵まれながら、己の動揺せぬ内奥の審美眼を説明する言語や論理を一切学んでこなかった自信過剰な知的怠慢だ。〝良い眼〟という羨望すべき天恵は映画監督にとってはすべてといっていい。映画は論理学でも哲学でもないので、作家個人の思想や趣味の如何を問わず撮った作品の筋は良計なのである。自身も意図しない汎人間主義の境地に一足飛びに至る本能の良質な毛並みを備えているのだ。ただし文学的映画を撮ろうとすれば、誰もが予想できぬほど無惨な結果が待ち構えているだろう。音楽的、韻律的に映画を撮ればきっと佳作となるのである。
 山田洋次監督作品『東京家族』は歴史的駄作である。さらに映画史に対する冒涜、犯罪といってもよい。
これは小津安二郎の一九五三年監督作にして戦後世界が到達した映画史的金字塔『東京物語』の翻案である。映画監督としては小津以来二人目となる芸術院会員の特権意識由来の奢りからか、時代設定は今日にシフトされているものの、図らずも露呈した秀才性の無神経で己の作画表現のタッチをあっさり捨てて、台詞や構図、カット割りまで小津調をトレースするという、ほとんどコピーともいえそうな大胆なリメイクを実践しており、そこに山田自身の哲学に沿うよう物語の〝添削〟が施され、小津と映画表現の文法を揃えることで両者のイデオロギー的相違を悪趣味なほどに際立たせ、本作の宿命的本質を著しくグロテスクなものにしているのだ。
と同時に、小津がテクニックを超えて啓示した『東京物語』の神髄を、山田は全く理解していないことが恥ずかしいほど暴露されることになった。喜劇的なことに山田はその眼で正しくとらえていない『東京物語』の独善的な幻を愛してやまないのだという。否、本当は愛してなどいなくて、松竹に入社したばかりの若き日と寸分たがわず、実はいまだ小津映画を〝保守的〟と軽蔑し続けているのかもしれない。己の美意識を偽ってまで、世界中が一斉に注ぐ眼差しの先にある小津の〝神格〟に目が眩み、左翼芸術家としては誠に滑稽にも、臆面もなく超弩級の権威に迎合してしまったのかもしれない。
山田よ、お前はもともと品がないのだから、品を模倣しようなどと考えるな。彼の世代の東大卒は例外なく敵性人種だ。彼らは現在なお倒れないどころか頑固な汚れのようにこびりつく戦後体制を巡る内戦の最前衛に現役バリバリで君臨する。
『東京物語』が公開された一九五三年は、第二次世界大戦以来の戦争状態となる占領期のむごい追撃戦を終結させるため日本と連合国で締結した講和条約が発効を迎え、日本が独立を回復した翌年である。それは希望に満ちた再出発というよりも、五年におよぶ再教育を修了した敗戦国民のなれの果て、〝戦後日本人〟の一丁上がりを意味した。武装解除され女をレイプされ、情報を遮断され偽の歴史を押し付けられ、民族の誇りを奪われ祖先や英霊、親との連続性を断絶させられ、孤独にさまようことになった日本人の魂は、とてつもなく虚無的で残酷になった。要はメンタリティが左翼的になった。
『東京物語』は残酷な映画である。悪意など何処にも存在しないのに、運命は絶えず暴力的采配によって不幸へ一方的に導かれる。まるでそれは、肝心要、重大なことを忘れている戦後日本人に対する警鐘であり天罰だ。
しかし自らが不幸である事実にすらいまだ気付かない子供たちは史上まれに見る言論統制下にあって占領軍がもたらした偽りの〝民主主義〟にも、解放感を見い出すことができ、事実それを謳歌していたのであった。かくも不幸な世代は、例え理解はできなくてもなお小津を堪能できてしまうのだろうか?
山田にとって家族とは基本的に呪縛であって、人間たるものはその抑圧から解放されなければならない。だがこの解放運動は徹底されない。徹底できるほど山田は超人的な男ではない。頻繁に旅に出て家族と距離を置くことで主人公に自由人を気取らせるのがせいぜいだ。しかもたまにしか帰ってこない者が一つ屋根の下で暮らす他の家族に比べて人間関係の濃淡に差ができるのは当然なところ疎外感を感じて、同じ家族として平等に扱えと勝手な主張を展開して、結局は甘えが許される家への帰属意識は絶対に捨てないのだ。
 『東京家族』は若者に対する説教がやたら目に付く。『東京物語』にはそんな無粋は一切ないので、山田が説教好きということなのか、あえて主人公である両親に若者を説教させているのだ。オリジナル台本にアカを入れているのだ。
親である長男の職業である医師を将来の職業としてはなからあきらめている小学生の孫に、こんなに早くあきらめてしもうて、と嘆き、次男の仕事である舞台美術に対し、不安定な職業、そんな腰掛け仕事でなく生業に就け、と職業差別の最低な難癖に吐けてのける。
人に説教する暇があったら、お前が自己批判せよ。一方では夢をあきらめるな、他方では夢を追うな、こんな一貫しない態度で説教する資格があるのだろうか? 医師はそんなに偉いのか? 偉いことは偉いとは思うが、果たして舞台美術より安定した職業なのだろうか? 子供の誰もが夢見、あこがれるほど、魅力的な職業だろうか? 現場に触れれば大工や舞台美術にあこがれる子供も医師と負けないくらい多いのではないだろうか?
何より許せないのが、山田は映画監督でありながら、パフォーマンス・アート業界の身内同然の裏方スタッフの仕事を平気でさげすむ無神経だ。まさか己は松竹という大企業の社員だから堅いとでも思ってやしないか。身内だからこそ多少の無礼は許されるという甘えた根性でいるとしたら、絶望的である。世界中どこの誰もが皆共通して挙げる悪徳とは、何度も言わせてもらうが身内を裏切る行為だ。戦後日本人は人でなしにも、英霊をないがしろにし続け、大東亜戦争の大義を最後まで信じ続けることができなかった。身内を裏切るやつなど誰が信用するものか。孤高を気取る己の根拠なきプライドが売国行為を推進するのなら、いったん行為を現象として凝視してみてほしい。国を売る様を美意識が許さないはずだ。しかしあらゆる価値を倒錯させてきた左翼にとっては敗北主義も戦略であり、大学卒業から退職までの長い潜伏期間も偽装転向という立派な闘争だ。何でもありが左翼であり、結局は戦略自体が意味を失って孤独な万人の孤独な万人に対する血で血を洗う闘争となる。
不健全な理屈で嘘をごまかし続けていけば現象が見る見る破綻して左翼思想では決して解決されない大問題としての〝死〟が近寄ってくる。そして左翼は最期の最期で最悪の恐怖にさいなまれるのだ。やつらは死にたくないのだった。
山田は人間さまを潜在的な喜劇的存在としてありのままをとらえる表現手法を採用してきた。小津は違う。フォトジェニックであるがそれは映像における倫理的必然の所産だ。
葬儀を終えて亡き母親を送るなり長女が長男に形見分けの相談をしだす。『東京物語』では二人が席を外したところで、次女がその残酷な振る舞いについて言及するのだが、山田は長女を彼女の面前で非難させる。長女は間髪入れず、大切な人の形見の話をして何が悪い、と逆切れる。これは山田の本音に違いない。しかし残念ながら、いい悪いの話なんか誰もしちゃいない。みっともない、はしたない、品性が疑われる、恥ずかしいからやめてくれと、それだけだ。生き方、美学の問題ゆえに本人に言っても仕方がないのであり、つまり山田の添削は実に的外れで恥ずかしいものである。東大卒と美意識の高低は全く関係ない。ただ東大卒は己のセンスに疑問を持たない傾向があるように思う。しばしば生活に支障を来しかねない厄介な欠点である。
 山田には小津が何一つ分かっちゃいない。彼にとって小津は昔のみならず今現在も「ナンセンス」であり続けているのだろう。しかしいくら理解できないからといって、国語の答案のような平易な物語に添削しても仕方ない。
『東京家族』の父親の設定は何と元高校教師。日教組で道徳教育反対運動に参加したそうだ。最悪である。そんな、万が一やつの子として生まれたとして同じ学校に通う人生の最暗黒など想像もしたくないものだが、とにかく彼は人生の黄昏に次のような台詞を吐く。
どこで間違ったのだろうか?
 全部だ、全部。お前らは己の不幸に気付かないまま、罰当たりなことばっかしくさって。特にエリートの頭は始末に負えん。治癒の見込みゼロ。早いとこ死んでもらうしかない。
類似のテーマを扱っていることで図らずも際立ってしまったが、方向はどうあれ、たとえ誤りであろうと、曲がりなりに我々の未来に責任をとろうとしているシネアストが黒沢清だけである事実は戦慄すべきである。しかしこんな軽量級では世界と戦えない。

三池崇史が満を持して世に送り出した意欲作が『藁の盾』(二〇一三年)」だ。第八十八回カンヌ国際映画祭コンペティション公式選出作品として、いよいよ世界一流の映画監督への野心的挑戦に打って出た。社会派を(できると思って)やってみたら無惨な結果を招いた。バカはバカの法を越えないバカフォーマットにのっとり、バカなりの聖性を実直に存分に発揮すればメタンフェタミン由来の基本的知性の種子に整理され止揚し昇華するものである。しかしこの実験は全く阻害されず野放しで通ったため、ある意味で凄まじい。バカっぷりが見事に際立ってしまったのだ。理知を偽ってしまった逆療法的強引の傲慢によって(明らかに血迷って己自身を誤解したのであろう)、唖然とするほどの浅薄さが恥ずかしいほど突出してしまった。バイオレンスも軽くなる。この娯楽作家は、エンタティンメント志向だからこそ、バイオレンス志向だからこそ、市井感覚に限りなく肉薄し、時代を最も鋭く映し出す社会派たる能力があるのだと、本人も勘違いしたのだろう。が、実は何も考えていなかったのだ。メディアが作り上げた偽装現実のステレオタイプと現実みのない人間観、歴史観の欠如は現状の認識を大いに誤らせ、単純で浅薄、しかも荒唐無稽な人間像を投影させる。実生活で偽善しか知らないし実施してこなかったので、人間の内奥に交錯する善悪の描写が不可能なのだ。悪い奴はとことん悪く、善人は無闇に弱く矢鱈に強い。表現が幼いのだ。この世には馬鹿か気狂い、二種類の人間しか存在せず、理想主義者や英雄的現実主義者、高潔な魂の絶対的不在を、夢幻の銀幕に刻み付けようとしているのだが、それが恐らくは脳天気な無意識のなせる技であるあたりが絶望的なのだ。まるで、マンガのデフォルメされた表現主義的世界を現実のカリカチュアとして仮託するのではなく、感覚の鈍磨によりまるでその誇張された世界がまさに日本の現実だと喧伝するがごとき姿勢なのだ。強引な詭弁を憚らないのだ。己のタッチだと押し通し憚らないのだ。
謙虚さを忘れ、己の作家性に苦悩し絶望しない者は芸術家として三流だ。クェンティン・タランティーノですら苦悩する。『デス・プルーフ』(二〇〇七年)には明らかな苦悩と絶望が見える。今そこにある絶望はハリウッドの終焉をうたっているがその果てに祖国の精神的物質的両面の危機、米国の崩壊まで見通している。絶望を連ねつつ現実から目をそらさず、なお未来を信じているクリント・イーストウッドはかえすがえす偉大なのである。芸術家というより賢者、聖人の類に近いうように思えるのである。
価値観の倒錯と既存の価値そのものの崩落でむしろ自身待ち望んだアナーキーの時代にあって、己の分をわきまえない畏れの感性や現実認識の能力が欠如した若い世代は、イーストウッドの最高傑作をぬけぬけリメイクしてのける恥知らずを侵すことに何ら躊躇しない。己を偉大なる映画史の末席を汚す一員であるという希薄すぎる認識より、当時者責任を放棄し離散的な存在に甘んじたい無責任の意識もない意識は、映画が大衆芸術であり総合建設産業だった時代から遠く下って、先鋭的テクノロジーがフィルムから電脳へ、現場から頭脳へ、有機体から細胞へ、総合芸術メディアに本質的変化をもたらし、個人映画の時代へ導いたが、縦軸を持たないカルテルはカリスマこそ排出すれ映画のメディアとしての権威は地に落ちることになろう。それでもよい。映像表現を大衆に解放する映画の民主化の恩恵を受けた世代とすれば、技術と美学の継承、変換の問題を軽んじる自意識過剰傾向から、世にも野蛮な不敬がこれからますます映画界を覆うだろう。異邦人の支配とはかくも虚しくも重責となる疲労を伴う。
戦後七十年対策として展開中の支那の抗日ドラマをネット上で目撃するにつけ、三池崇史が思い浮かぶ。取りも直さず彼の作品に関するドラマツルギーそのものの欠落を忠実に物語っているのではないか。

着実に成功の階段を上ってきた在日韓国人監督李相入入魂の作品だという『許されざる者』(二〇一三年)は、映画以前の問題で表現として論外である。と同時に、日本映画の醜悪な現在を雄弁に伝える特権的サンプルかもしれない重要作品ともいえる。その問題の本質は、閉鎖的自我の深淵へひたすら陥没していく個人的ファンタジー世界観の現実的乖離の甚だしさにある。映画監督という以前に表現者として重大な素養の欠落を想起せざるを得ない。隣で黄金時代を謳歌する韓国映画界とはいかにも対照的である。国策で量産されるテレビドラマや歌謡曲の衆愚からしのばれる不自由な表現環境から迸り出たとは到底信じられぬ映画の赤裸々のなる珠玉の数々である。
 ところが李が創出し稼働させるキャラクターはおよそ一個の人間とは信じにくい主体性不在の虚妄に結ばれるのである。背景としての誤った歴史観を奉じて自我の根幹、世界観を形成し、ひとつの疑念すら抱かない、もしくは全否定へ諦めて破壊と再構成を図るまったく同じ映像を描き同じプロセスを辿ることになる、業を前面に掲げた愚者の永劫回帰を恥じず、実は自身が嫌悪しているはずの人間主義的、自然主義的倫理を声高に唱導し、しかも短絡を極度に嫌うあまり避けがたく立ち現れる矛盾を、矛盾として正直に表現すればまだ筋が通るものを、倫理的であると同時に退廃的でもありたいという、およそ退廃した悪趣味の非現実を投げ出しておいて、まるで己が革新的な世界観でも展示しているかのように装い強固に思い込みノイローゼとしか説明しようがない業に由来する嫌みな態度で主調も形作られる。それを愚かにも〝表現〟だと勘違いしているようだ。
 もういい加減に、日本史を欧米帝国主義国史と同質なものとする安易な確信の前提で現象としての史実のピースをパズルへ当て嵌めていく致命的誤謬を繰り返すような悪癖を止めねばならない。実にこの機能的構成主義が、いくつもの虚偽の歴史ピースを、ふいに出現した矛盾という空白を埋めるべき西洋文明史の類例という脈絡によって仮定し説得し、無条件で鵜呑みにさせられている戦後華夷秩序を機能再生産する元凶なのである。
この史学解釈の定式こそがアイヌ、沖縄人や、さらに朝鮮人をも不幸にしたといえる。日本と英国には地政学的類似点を認められるし、歴史展開において同じ因果律を適用して差し支えない場合も少なくないだろうが、どう考えても地球上の極東と極西という両極を同一視する歴史観は基本的に無理がある。東アジアにおいてまともに国民(ネーション)国家(ステート)と呼べる国はいまだに日本のみである。
アイヌに民族意識などあったはずがないだろう。歴史的必然もなくいまだもって持たないのに。さらに、アイヌはそもそも先住民ではない。
北海道は縄文時代より蝦夷が東北地方から越境、跨坐的に勢力を及ぼしており、いわゆる〝アイヌ〟とは、七世紀ごろから流れてきたオホーツク系のニヴフと和人化した蝦夷が北方アジア的自然のうちに和合し融合しつつ多様な異文化情緒を継承してきた集団で、外来文化の抱擁というヤマトの構造の本質的見地から解せば、アイヌとは定着した地が中央から遠隔な辺境地である分だけ素朴な特色が色濃い正真正銘の日本人であって、実際に古代よりヤマトと共生、同化、解け合いながら生きてきたのだ。
同質の展開を適用できる遠隔地としての沖縄も日本である。それはDNA分類の血統的観点からも、言語学的、民族文化的観点からもやはり〝琉球人〟は日本人といえることが証明されている。
それでも日本人という国民意識においては遠隔地なりに希釈され、境界が曖昧で国籍判定など困難で無意味でもあるが、同心円状のグラデーションを形成する地理的特徴は明らかに同質集団の延長面上にとらえられる現在の日本列島の全貌を原初的な天然国民国家の総体としても適用してよいと考える。とにかく我々は出自に関して比較的に悩む要素が少ない民族であるはずなのだ。現在取り沙汰される分裂主義などは悪意をもって内外から扇動された世迷い言にすぎない。
我々はあまりに古くからの大同質集団であるがゆえに、民族分断の危険に対してほとんど免疫を持たない。この敗戦後七十年に至って、今こそ民族史上最大の危機に対峙しているという認識をはっきり共有すべき非常事態にある。
 長き同化の経過で現在は自然溶暗しほとんど失われたアイヌの残滓を殊更に異物視するのは危険な思想である。掛け替えのない希少で繊細な民族文化や、矛盾を補完することもなく、そもそもがありもしない民族浄化級の大虐殺を想定して、わざわざ悪用される危険を招きかねない伝説的郷愁と虚妄的罪悪感のトラウマティックな増幅は無用な害悪でしかない。これこそが事実上の差別を黙示している偽善であり、それは極めて不潔な自己憐憫の感性を醸成する可能性がある。我が民族の集団的無意識下にある比較論から導出される優越感と弱者に対する配慮は、どちらも基本的に民族的善意に由来するもので、日本民族としてのプライドであり、武士道的エリート精神でもあり、弱き者への思いやりであり、上にも下にも置かない同じ人間としての自然かつ内からの平等意識である。
両者は精神的不健全によって価値が動揺し、容易に人種差別や悪平等の感性へ傾斜する自分自身に対する疑義と不安に転化し、その価値倒錯に揺動する自己に自家中毒的汚染を来し、それまで存在しなかった悪意の所在を確信し、そこで罪の意識に苛まれるプロセスに達することとなる。この神経症状態を救えるのは、信頼を寄せる家族や恋人、友人といった他者であり、信じている思想や宗教、イデオロギーや歴史の真実、特に自身が帰属する民族史、神話である。つまり歴史的存在としての自己の再定義である。その際に陥りがちな過ちだが、決して別人になろうとしてはいけない。あくまで自己存在の位置付けは帰属する共同体の時空軸におよぶ世界観における実存であるべきなのだ。
世界は日本人の想像を遙かに凌駕する虚偽で満ちている。だが総てではない。間違いなくこの世界は事実で構成されているのであり、事実をどう認識するかで自分の世界における嘘の割合に関して半分を大幅に切るまでに極小化することができるのだ。
映画監督に必要な要件とは、真実を見抜く千里眼ではなく事実認識の能力だ。可能な限り良質な情報源を求めそれに触れ続ける努力を惜しんではいけない。基本的に世界を構成するのは事実だ。目に見えるものが基本的にそれだ。映画を構成する要素も基本的に事実であるべきと胆に銘じなければならない。個人映画の時代ではますます虚偽で幻惑する技術が発達するだろう。全編を嘘で固めた映画が既に制作されている時代にあっては、事実認識という自明の理が容易に忘れられるに決まっている。容易に価値が転倒する真実ではなく、ショッキングな一次的事実を、概念的真実より研磨された己の美意識を選ぶべきだ。
GHQが仕掛けた悪質なるプレスコード言論統制の愚とそれを正義の錦の御旗と信じきって後生手放さない世にも醜い類の偽善者であり、ドグマティズムに陥らない基本的懐疑の欠如した思想奴隷だ。無闇矢鱈に過剰な自己評価という救いがたい病理、思想もリアリティもないから、生まれてこの方進化も止揚も懐疑もせずひたすら反射化するまで慣れ親しんだ思考構造としての左翼定式というステレオタイプでしかものを語れない貧しさ、情けなさはどうだ。若者のハシカだと思われてきた言説でもって説教くさい大人を気取りたい、誠に退廃しきったこの表現者を襲う本質的恥辱の現実を、いや応なく突き付けられるのだ。露呈するのは単なる低レベルな自己愛であり、白痴というより幼稚である。もはや心身および外界の均衡が崩れた障害、疾患である。誤った歴史観、世界観にどっぷり浸され、その上他人に興味がないものだから解釈する基本的能力がない。
翻案という表現活動の恐ろしさも知らないで、礼儀知らずで傍若無人な童子のごとく臨むので、もしやただ楽とでも思ったか。言えるのは、安易で無責任な人工的人格に無理にコミットした無為な解釈による単純な連結でいったい何を問おうというのか? 自分も知らないことを世に問えはしないのである。
基本的にいったい人物相関として対決する二人のキャラクター設定は何だろう。オリジナルキャラ全体を構成する一面一面をクジにでも書きためてガラガラポン? 宿敵はリトルビル・ダゲットでなければならないものを、勘違いが。善悪を超えて態度を明確にしているではないか。哲学をぶりそうでいて単なる物知りとか雑学博士のたぐいで、殺し屋にこのような奴は絶対にいない。ウィリアム・マニーというネガティヴ・ヒーローは、劇中においても伝説でありながら、真偽を問い糾されたとして、殺し屋というものは言い訳をしないものだ。女子供も平気で殺す。それがどうした、文句があるか。愛する者を守るためには全身全霊を懸け、ふてぶてしく生きられればよい。それでよいに決まっている。それが人生である。
しかし、李が描きたかったこととは何なのか、女子供を殺害した過去を追究されてくよくよし始めたかと思えば発狂してしまい、仕事後に我が家に戻らず雪山の奥へずんずんと、なんと残してきた子供たちを捨てて、何もかも捨てて育児放棄して凍死自殺するのである。本末転倒、と書くのも穢らわしい史上最低の無責任だ。この脈絡を苦悩の果ての〝贖罪〟とでも解釈する民族が世界に存在するのだろうか? もしかしたら9条教思想の解釈では納得しうる結末なのだろうか。敗北主義者が正解と考える、殺し屋の責任のとり方なのか。ちなみにこんな殺し屋は存在しないし、そもそもこのような奴に人殺しなどできるはずがない。山賊上がりのメキシコ革命の英雄パンチョ・ビジャは、革命が成就し動乱が終息すると、三人の妻と六人の子供、革命の同志やその家族と共に農園を経営して平和に暮らしたという。このタフネスを備えた者を男といい、ビジャは男の中の男の典型例として中南米に広く国境を越えてアウトローに愛され続けている。人殺しが嫌で家族も守ることができない臆病者よりさらに外道の所業としか考えられない筆者だが、李の美意識には適っているのか。イーストウッドは同意しないだろう。するはずがない。まさか李は原作と全く異なる、いわば自らのメッセージとなる、原作とは価値観が真逆に転倒した主張としての脈絡を、イーストウッドが歓迎するとよもや考えてはいないだろう。ちなみに北軍に愛する家族を虐殺され復讐の義務を負った〝アウトロー〟ジョシー・ウェールズは、人間存在とはもはやこれまでと絶体絶命の窮地に立った時にこそ死に物狂いで戦うのだと、絶対に諦めるなと、あまねく人類へ檄を飛ばす。死ぬ気で生きよ。生きるも死ぬもいずれにしろ死にベンチマークを置く死生観は、そっくり『葉隠』の武士道哲学にも通じる。つまり美意識に従う道徳的存在論だ。ただおめおめ生きてりゃ、ただ死にゃいいってもんじゃなく、さらに大義なき自殺は人間性を愚弄する悪徳ゆえにキリスト者に無条件否定される行為だ。つまり李が描く新主人公は、愚劣にして独善的な自己愛性人格障害者だ。設定上の無理がある存在と言わざるを得ない。
まず内容以前の問題として、卑屈なほどの政治的過敏がかえって審美的無神経を招くも、その犠牲は払って恥じず、映画としてはほとほと窮屈で不自由な時空なのである。アウトローの物語にあっては伝家のプレスコードの厳格厳守が発動し、アウトローの物語を構成するあらゆる広義の差別、虐待という不道徳、特に近代日本の上昇気流に浴さなかったアウトサイダーに対する不利益に関して例外なく台詞上のエクスキューズで見苦しい説明的蛇足に臆面ない。日本の正義や栄光を自明の措置として観点変更して矛盾や無為に倒錯させ、結果的に滑稽にも登場人物より舞台である日本という漠たる非人格の悪役キャラこそを明確化させている。悪意の所在はさておき、許されるものだろうか? 日本の歴史認識が「許されざるもの」だった。性的恍惚に上り詰めるプレスコード自家中毒とは、価値観を共有しない筆者の想像も及ばぬ境地であった。日本の表現の自由に挑戦する自覚的悪意と官能性怨嗟という危険思想がこの自縛的異形の正体か。究極の表現規制の産物、これが本作品である。本能的に拒否すべき作品である。

『TOKYO TRIBE』(二〇一四年)は東京の現在を何ら反映していない戦慄的空虚にひたすら虚脱させられた。その救いようのなさと比べたら『希望の国』(二〇一二年)の誤った世界観の方が量感、名実のボリュームが存在するだけまだましに思える。それはあたかも表現放棄の罪に対する愚鈍極まる無自覚を象徴するようだ。限りなく無意味な自縄自縛が組織化する旋風の道連れに、日本映画史まるごと巻き込まれるがごとき瀬戸際の危機を痛感せざるを得ない。
映画監督の目が節穴では話にならないのである。そして幸運な少数者は歴史的要請に応える義務がある。
園子温が本邦トップの映画監督として社会的意義を問われた『希望の国』は、見事に何の足しにもならない、撮った動機をも疑われる凡愚なステレオタイプの集積であり、しかもそんなステレオタイプに致命的誤謬がある。攻めの被災地縦断ロケという野心的試みに挑んだはずだが、作品全体として露見する過少な、なにか陥没したような印象は図らずも現場の渦中でなにか意味のあるメッセージでも発信してやろうと目論んだものの実態的現場と想定、というより思い込みの甘さ、無責任との巨大な断層に対峙させられ、現地当事者との距離、溝を縮めきれなかった致命的事情が決定的に、ありきの左翼的結果論と無惨なまでに疎外され、『愛のむきだし』で強引に通用させた破綻の世界観が、曖昧や無責任が許されない国難をテーマ取った時に恥ずかしい非文明性という、世界の誰しもが期待を裏切る無惨なる虚無をいや応なくも叫ぶことになったのだ。滑稽なほど〝歴史修正〟されないのだ。これは日本人にとってはちょっとやそっとの覚醒では解けないイメージを超越した難物の呪いかもしれない。
九〇年代前半に突発した『東京ガガガ』という路上パフォーマンス運動は曰わく「右に左にのみならず、上も下も」破壊するという、位置付けも体系付けも放棄し野蛮を信仰するが故に、おめでたくも当人にその意識がない、左翼思考の典型に陥る、永久に避け得ない再帰性の罠を抱え続けるわけだが、しかしながらそれが国際的評価を勝ち得た作家性の源泉なわけである。映像詩人が己の言論に無責任であって構わないと思うが、イデオロギーを否定する全方向的破壊分子たらんと表現した詭弁は、闘争世代に遅れ出たルサンチマンに対する防衛機制であり、時代を代表する芸術運動としての価値を認めていただけにしょぼさがいかにも残念なのである。防衛機制の発動でプロパガンダは曲がりなりに達成した。それでも解消されないだろう。路上でやれなかったことのありったけを『TOKYO TRIBE』に詰め込んだという告白は衝撃だった。時代の現実を反映し暗い予感を黙示したカリカチュア構造の構築失敗、シーンの当事者たる若い世代を落胆させた頓珍漢の訳が氷解した。そもそもあれは園の個人的なおもちゃ箱だったのだ。方法論も真逆であって見てくれも個人映画のそれでない紛らわしさは、もしかしたら才能の枯渇もしくは転移する需要との乖離を先取りした作品なのかもしれない。シビアな現実に透過してみたらある決定的な本質がますますむきだしになっていく。園の失敗作に特徴的な後味の悪さは、きっと醜悪な祖国のごく一隅の真実なのだろう。
被災者を悲惨な現実の打開を放棄した宿命的弱者として描く差別的表現の中にあって大谷直子の台詞「残念だったな」のニュアンスはよい。ベント開栓の遅れかえすがえす残念だった。かえすがえす残念無念だった。かえすがえすも『自殺サークル』(二〇〇二年)は傑作であった。
作家生命を侵す致命性はないが、一足ずつ微妙にタイミングが遅れていくのは、大衆と一体化した低俗な日常を送ってテレビばっかり見てるからである。
市井の日本人はマスコミが嘗めてかかるイメージより遙かに成熟した実態を持ち、現実を深刻にとらえ真摯に対応している。机上集約の情報の罠を避ける術も衝撃耐性も持っており、つまりは腹をくくっているのだ。だからあれでも下部構造の奮闘努力により持ちこたえたのだ。今も原発再稼働できずぎりぎりで持ちこたえているのだ。いったい何が信じられて何が信じられないというのか。知的怠慢が非理性的不安を肥大化させ、増幅した不安がヒステリックな反知性にフィードバックして、およそ表現者として恥ずかしい自縄自縛的誇大妄想に溺れたか。地元密着型の信頼性高き知恵には、驚くほど左右の思想傾向に片寄りがない理性的な含蓄がある。非常事態にパニックするより能がない都会のインテリに被災現場の本質が理解できるはずもなければ、現実を顧みない馬鹿げた論説に説得もされなければ、迷惑な風説で啓蒙を試みても太刀打ちどころか、被災者に顕示欲の存在と悪意の不在を見透かされて議論すら成立せず、冷静に被災者から秩序維持の協力と静粛を求められよう。原発土建労働者を無知蒙昧な犠牲者と嘗めてかかると、大学文系卒の反原発ライターなど統計と経験に基づく放射線科学の豊富な知識により瞬殺で論破されよう。独善的かつ差別的な偽善行動にも、他県からわざわざ訪れたインテリをむしろ立てる敬意を忘れない被災者は、高校卒業後すぐ地元土建屋に就職し東北から出たこともない凡夫と自認する善良な原発労働者であり、その高い美意識は愛車マジェスタから垣間見えるばかりでなく。都会のエリートがとっくに失った気負わぬ愛郷意識と自然な責任感、つまり被災者のノブレス・オブリジュを目撃した落雷的衝撃に打ちのめされるのだ。
愛さえあれば何とかなる。それはその通り。だが奇跡を祈りつつ座して死を待つことができる耐性、眼前の悲劇を忘却する力や、我が子のために国難からひたすら逃げ続けることを恥じない愛、そんなものではなく、掛け替えのない瀕死の祖国のために命懸けで戦う意志の源泉が愛でなければならない。そして実態として愛は機能している。放射能汚染を恐れ恐れて福島から左へ左へ逃れ逃れて、日本最西端は沖縄に辿り着き、狂奔ついでに琉球独立運動に踊り踊る者の物語など、筆者は聞いたことがないし、もし例があったとしても聞きたくない。限りなく近いものが筆者の身近でたださえ複数例確認されているわけだ。
子供の亡霊のシーンは真骨頂だが、一歩一歩とはいかにも決意のない言葉で胸くそ悪い。かつて東電の原発安全対策事業の地元説明会で原発安全神話の揚げ足をとり神話的安全性に対策を打つ論理矛盾をつくドグマティズムの言葉遊びでサボタージュに成功し、鬼の首をとったように勝鬨を上げて、後の大震災を想定した安全対策事業を手ずから妨害したのはいったい誰だと? 左翼だ。サヨク。
絶頂にある園が己を全能者と勘違いして矮小な世界観を露呈してしまった『愛のむきだし』(二〇〇九年)だが、宗教や思想というものに関する理解の危うい狭小さはもとより、人間そのものの洞察が甘く幼いと言わざるを得ない。園は三島由紀夫の『金閣寺』ぐらい読んだことがないのだろうか? 権威を否定する態度の善し悪しはさておき、そこに具現化される世界は、認識や理解の次元でなく単なる〝発見〟にとどまるのであって、園に三島の知性を期待する方が間違っていると承知の上で、隠れもない日本を代表する世界的芸術家のあまりの知的低レベルを嘆かざるを得ないのだ。これが平時なら問題にしないのだ。園よ、いったい現在ただ今我が国が戦争の渦中にあると、歯の浮くような台詞を口走らせもするが、あれは左右のみならず上も下も、と同次元の詭弁的言葉遊びであって君自身は現実問題としてそう思っているわけじゃないんだろう? 園の現在形にとって、彼を取り巻く世界に存在し運動する総てが下品で不合理で馬鹿らしく憎悪し貶るべき対象なのだ。
『シオンの議定書』の共犯者へ誘うハリウッド・ユダヤの甘言にたらし込まれて、まんざらでもなさげ。〝無自覚な代理人(エージェント)〟のままではちょっと憐れすぎるから、さっさとイルミナティでも何でもなりやがれ。

 塚本晋也が戦後七十年を迎える二〇一五年夏の重要な節目に当たって、かねてから温めていた愛読書『野火』の映画化を実現したと聞き、耳を疑った。何を隠そう筆者も大岡昇平の愛読者であり、塚本作品に対しても少なからずシンパシーがあるので、是非とも観なければなるまいが、これが悪い予感しかしない。どう考えても筆者の日本映画にとどめを刺し、その無惨な最期を華麗に炸裂させる地獄の業火となること必定ではないか。
良い意味でも悪い意味でも幼稚性は健在であった。問題の核心は戦争暴力の重厚かつ深刻な本質に幼稚の陽性なる暴力で挑む無茶であり、果たして無茶がたたって玉砕の惨敗を喫したのだ。幼稚な人間がいくら己を繕おうが幼稚な本質から逃れることは不可能であり、致命的なアンビバレンツと直面する運命だ。致命性は塚本節のゴージャスが、表現に格調を求められる戦争のシリアスに耐えられないという残酷な現実である。底抜けの無邪気はあまりにも空しいフィリピン原住民描写の非礼、つまり彼らの描写への危うすぎる無関心を浮き彫りにし、また日本の対戦相手であった米軍の徹底的排除、大東亜戦争を描くにあたって米軍の不在は特に珍しい例でもないが、フィリピン原住民が着用する平服イメージの鮮烈なカジュアルによって塚本の拘りに目を見張る帝国陸軍の所作、軍装の考証の正統から、丹念にして大胆なヨゴシやアレンジの折角のセンスが、現地調達の太った素人ババアのゆるいにも程がある私服出演から、その〝アッパッパ〟姿のまま、だらしなくも恰幅の良い彼女が米軍車両に乗り込み、地獄のダイエットをしのばせる折角の役作りが灰燼に帰する存在感で、女だてらに体格と明るい色味で圧倒し、真っ黒に垢染みたマッチの燃えさしのごとき日本軍敗残兵どもを機銃掃射で派手に大量殺戮というカタルシスにて絶頂に達し、別天地に住むかのごとく明るくてふくよかな原住民を尻目に、我が軍は飢餓の苦しみに耐えながらいったい何を相手に必死に戦っていたのかという、大東亜戦争の本質に迫る大命題、延いては問題化するはずがなかった米軍不在問題までも喚起して、全てが水泡に帰する。さらに始末に負えないことに、塚本らしいラストシーンの確信犯的蛇足で表明しているわけだが、塚本が自身を大岡昇平に投影し同一化、神秘的融即に達して疑わず、恥じない神経の異常である。もともと正常な神経の支障ない部分からちぎって成立させた肉体的ダメージの大きいタッチであるから、ある程度の無神経はやむを得ないともいえる。進化を拒否した攻撃的タッチは紛れもなく〝革新的〟であり、このテーマに挑戦して露呈した思想傾向から人間観、世界観、歴史観、何もかも想定の範囲内ではあったが、ディレッタントにあらゆる全ての観点から〝幼稚〟と評価されても仕方ない危うさがある。地雷を踏んでしまった。もう限界だ。
 鑑みるに塚本独特の始原的表現、破綻のグルーヴが増幅し発狂する暴力的タッチはかえずがえす日本人離れした特異でパワフルで貴重な作家性である。ただ本源的に異端児であるべき奇才が不幸にも日本映画の最前衛に押し出されたまま、その後後塵を拝する者もなく先頭に立たされ続けた揚げ句に、柄でもない〝社会性〟を追究して日本代表の範を示さねばならぬ責任を負ってみようと決意した。もしかしたら塚本なりに危機感を覚えたのかもしれない。しかしいくら本人に拘泥があったとしても、彼のような本能的表現が持ち味の天才には絶対に扱わせてはならないテーマだった。周辺に諫める者がいない孤高の前衛であることは容易に想像が付くが、悲劇である。
大東亜戦争という微妙で重いテーマには塚本の型破りな表現が要求する自由度、強度がいかにも不相応であるが、それでも玉砕したとはいえ、この果敢な挑戦には意味があったと言わざるを得ない。
ただ、ミクロ系の暴力でマクロ系の暴力を表現する合成誤謬的手続きは十中八九、現場的にも史実としてもリアリティ表現の避けがたい虚偽を犯してしまう悲劇的結果となる。加えて、塚本には原作の読解力にも問題ありと言わざるを得ない。過剰にパワフルな才能にとって原作への思い入れやフェチシズムは鬼門なのである。
どんなに才能があろうとも、歴史を修正する権利など一介の映画監督ごときにあろうはずもない。その無垢なまでの傲慢さは使い方ひとつで、支那が選択した反日アイコン、アンジェリーナ・ジョリーに軽率にも協力してしまったコーエン兄弟のように、高く付いた禍根の不名誉を刻印する。遡って一九九五年に南京プロパガンダの超大作を撮り、図らずも三十万人虐殺はおろか、事件そのものの歴史的不在証明ともいえそうな、実に不自由で貧相も極まる〝スペクタクル〟演出を見せてしまったジョン・ウーの先例にも倣い、塚本は〝無自覚な代理人(エージェント)〟という道化を御多分に漏れず、凡庸に演じさせられてしまった。
このような恥辱的で無慈悲な知的汚染の罠から表現の自由を保守する有力な手立てのひとつは、情報の自由と独立を死守する国家意志、いわゆるスパイ防止法である。というのは、コーエン兄弟もウーも企画を中共の反日プロパガンダと承知した上で仕事を引き受けている可能性が高く、一方塚本は純粋な暴力表現衝動から、好きこのんで中共の戦時プロパガンダに結果として加担した。利敵行為を恥じるか、罪のない詐欺被害者として開き直るかは塚本次第だが、この国では市井に生きる保守として愛国者面しつつも「愛国的」動機から反日工作の〝自覚的代理人(エージェント)〟を進んで努める日本人も少なからず存在する事実を忘れてはならない。彼らは隣人として善良な弱者に接近して心理を政治的に誘導、あくまで隣人として〝無自覚な代理人(エージェント)〟の行動を操り組織化する。
例えばこの十年の崔洋一体制でこれまでになく政治色を深めた日本映画監督協会などは、ある頻度で出入りする会員であれば、確証はないとしてもスパイ行為や反日工作に全く身に覚えがない監督など、映画監督の資格を疑われようものだ。
スパイ防止法をインテリジェンス戦争犯罪の公然部隊としての本質が暴かれる本能的恐怖からマスメディアがその制定に抵抗するのは当然のことだが、独立した個々の言論人、表現者が一斉にその無条件なる手先としてピケを張る反射行動はあまりにも愚昧ではないか。〝無自覚な代理人(エージェント)〟は不安心理を操られて非理性的行動へ駆り立てられる。論理的思考を拒否して知的に解放されたつもりの表現者も、論理的思考ができないばかりに自由な表現どころか社会不安の虜であって、感情的に激しく動揺しつつ現実社会の実体的不安を増幅させるアナウンス機能を担うことになる。カウンターカルチャーの思想そのものが、間諜から見れば操りやすい思考回路の持ち主ということになる。
性表現規制の根拠法である刑法一七五条の撤廃すらいまだ実現できず、あまつさえ差別用語、残酷/暴力描写に対しては表現規制の側に回って運動する厚顔無恥な振る舞いが、表現の自由の問題に対して今まで全く誠実に取り組んでこず、また深く考えたこともなく、現在に至るも深刻にとらえていない救いがたき安穏を貪る日本の表現者全員におよぶ実態としての痴態が、世界へ晒されており、もはやそれは公然猥褻と呼んで差し支えない大罪なのだ。
世界が笑っている。日本映画を笑っている。日本人の精神的退廃、敗北に、世界の一割で構成するクラブが祝杯を上げる。残りの八割は無表情で軽蔑を表明する。残りの一割は掛け替えのない過去の絢爛豪華な遺産の継承権を、祈りを込めて我々から剥奪するだろう。戦後七十年などという中途半端な節目を記念して戦勝国情報筋の手拍子に踊らされて世界中の悪趣味な偽善者どもと同調して、まんまと反日プロパガンダ映画を撮らされていい気になってる場合か。謀略扇動のバイブにうかれている暇があれば、我々日本人の眼前で蹂躙されている表現の自由と独立の防衛に立て。たった今現在も着々と推移する世界秩序危機の初期微動を感じないのだろうか。その目なら妨害バイブのデコイを濾過し惰眠の罠をかいくぐって覚醒できないはずがない。

宮崎駿は映画監督なのだろうか? 今さらながら、北野武が映画監督なのか、という問いと同様にいつの間にか悩ましい命題になってしまった。
宮崎も北野もこの問いを面と突き付けられたなら激怒するだろう。それぞれベルリン国際映画祭金熊賞受賞監督、ベネチア国際映画祭金獅子賞受賞監督である現在でもなお、やっぱり怒り狂うだろう。それはかえって映画監督の自覚と責任感の欠如を黙示しているのかもしれない。
それでも宮崎はさすがに自分が山本薩夫でないことぐらいは認識しているのか、『風立ちぬ』(二〇一三年)には意識的な〝戦争映画〟化の回避工作が見えるし、その狭量な知的スケール感はあらゆる場面で見受けられる。映画を離れた実人生においても。七月十三日、外国特派員協会における発言。
「(安倍首相は)『憲法の解釈を変えた偉大な男』として歴史に名を残したいと思っているのでしょうが、愚劣なことだ」
憲法の解釈を変えた男のどこが偉大なのか。憲法改正など議論の余地もなく絶対不可能という前提に立った傲慢な発言ともとれる。平和主義の醜悪な実相さえもイメージできない貧しい想像力は、滅びゆく我が身と重なる亡国の暗転(民族史の終わり)という確固たる未来像に由来するのだろうか。未来に希望をつなぐ気が全くない残酷な世代的漆黒を負った宮崎は、その寵児として歴史的使命を十分に果たし終えた。自重を促したいところだが、彼は宿命的な世間知らずであったのだ。
「へのこききん」って……ホームレス市民にくれてやる金があるなら日本映画の未来に投資してくれや。もしや、そこに憂いはないのだろうか。政治的発言をするなら表現の自由に対する最大の脅威である改正児童ポルノ禁止法の試行に対しても一言あってよかったのではないか。欧米人記者にロリコンだと軽蔑されたくないというわけか。宮崎に限らず日本の表現者の政治意識などしょせんこの程度だ。」
もしや監督協会のキャンペーンなのか、宮崎に続き山田洋次も八月十七日付けの東京新聞紙上で安保法案批判を展開し世迷い言も、安倍は謝罪が足らない。「いざとなっても戦わないのが、この国のあり方だ」とどうしょもない。
こうなったらぜひ存命中に「いざとなっても戦わない」ifの具体的な近未来日本のシミュレーションを映画化してもらえないものか。
どうせ敗北主義ナルシズムの独善的破滅思想と自己批判の絶対安全圏が担保された滅亡する自民族に対する徹底的差別とよこしまなカタルシスでは、滅びの美学としてはあまりに荒唐無稽でまた責罪が重すぎ、それ以前にイメージが戦争のリアリズムに堪えられない。
どうせ山田はいまだ棄てられない敗戦革命の見果てぬ夢が前提なのだろうが、革命成就のために一切の手段が正当化される、例えば自らスパイを働き扇動した中共の日本侵略による民族滅亡の危機に乗ずる、という卑劣な計画などシナリオになじむはずもない。
作家の良心や美意識に反してまでかくも非人間的な危険思想にいまだ執着せしむ左翼集団ヒステリーの病理の深淵たるや、まさにユダヤ秘法の醍醐味としか形容しようがない。
 なお宮崎と山田、崔ら映画監督協会員など映画人二百六十九人が二〇一三年十二月三日に「特定秘密保護法案に反対する映画人の会」なる運動体をも発足させ、六日に成立した特定秘密保護法案への反対声明を発表した。
「心ならずも戦争に対する翼賛を押し付けられた映画界先達の反省、日本映画界は戦後の歩みを開始しました」とした上で、『知る権利』を奪い、『表現の自由』を脅かすことになりかねないこの法案は、とても容認することはできません」
 映画監督にとって戦意高揚映画を撮るという権威的大義に身を尽くし、己の能分で存分にお国のため役に立とうとする働きも、オルタナティブへ志向する表現の自由というものだろう。基本的観点規制は事象を俯瞰で認知するに劣る知能であり、表現者としては致命的な恥となる。高貴な国民意識に一刻も早く美しく殉ずる死こそが精鋭的に、邪魔で無意味だ。
日本の芸術知性が徹底的に病む根本問題は己を見失わしめた嘘への信仰を唆し偽善のみを信奉させ、道徳や善を進歩的、人間的でないと教唆した日本独特の反語的左翼秩序によって神経に精密な運動異常を病ましめた洗脳倒錯である。これを日本人は〝戦後神道〟として受容させられてしまったのが問題である。つまりあらゆる発火鍵を設定された集団的催眠地雷を体中に埋め込まれて外的悪意のいいように、現実的にコントロールされているのだ。この呪縛は意識的な自己破壊と自己創造を生半可に実践したところで解けない悪質な民族病理である。しかし芸術的知性は芸術的知性たる存在所以があり、少数であろうともその実在によって歴史的転回に可能性を与えている。
そして確かに現存もしている。例えば大友克洋は、現代文明社会が一九八六年に実際に初めて迎えた人類存亡に連鎖する未知なる史上最悪の危機に的確な処法箋を提示し、その上さらに〝二〇一一年のカタストロフィー〟となるべき人類史的分水嶺において、まさに破局的天変地異に見舞われ、さらにその上〝天罰〟としか呼びようがない人知を遙かに超えた超越的意志の計らいによる未曾有の原子力禍と戦うという、我が民族が背負うことになった過酷な運命をも預言した。
『AKIRA』と史実の全面一致を見ることになる東京五輪開催の記念すべき二〇二〇年は、何らかの国民的成果が問われる年になろうが、ぜひ我らの生涯最良の年にするべく誓いを立てようではないか。

http://www.facebook.com/notes/10207565345680110/

 

福島原発

 投稿者:cj  投稿日:2015年 4月 4日(土)01時07分41秒
  つりさきさんはいつまで福島原発で
働くのですか?
 

オロスコ遺体整復師 ?

 投稿者:ラーメン二郎食べたい  投稿日:2015年 3月30日(月)15時58分31秒
  貴殿の死に化粧師オロスコが全編youtubeにアップされていますよ
https://www.youtube.com/watch?v=xjxFOeFOtNY
スペイン語圏の人のページのようです
 

お!!

 投稿者:れいこ嬢  投稿日:2015年 1月 8日(木)00時18分10秒
  この掲示板、まだあったんですねー!
みなさんお元気ですかー!!
 

妄想でした。

 投稿者:キャサリン  投稿日:2014年 3月11日(火)12時57分14秒
  おはようございます。

イラストレーター岡部貴聡さん

岡部貴聡さんご本人と掲示板の皆様に、私の勝手な思い込みの投稿でご迷惑をおかけしました。

お詫びいたします。
ごめんなさい。

岡部貴聡さんの名前を初めてお聞きの方には見当違いの拙い文章と重複の投稿には失礼をお許しください。

投稿が不適切と思われましたら削除して下さいますか?
お手数ですがよろしくお願いします。

岡部貴聡さんが健康に過ごされることを願います。
 

『東京家族』感想

 投稿者:釣崎清隆  投稿日:2014年 2月 1日(土)11時33分24秒
  二〇一三年年頭公開の山田洋次監督作品『東京家族』を年末に観た。衝撃的であった。といっても決して内容が「衝撃」的なわけでもなければ、そのたたずまいが「衝撃」的だったわけでもない。公開現象が「衝撃」的だった事実もない。

『東京家族』は歴史的駄作である。さらに映画史に対する冒涜、犯罪といってもよい。

この作品は小津安二郎の一九五三年監督作にして戦後世界が到達した映画史的金字塔『東京物語』の翻案である。映画監督としては小津以来二人目となる芸術院会員の特権意識からか、時代設定は今日にシフトされているものの、図らずも露呈した秀才性の無神経で己の作画表現のタッチをあっさり捨てて、台詞や構図、カット割りまで小津調をトレースするという、ほとんどコピーともいえそうな大胆なリメイクを実践しており、そこに山田自身の哲学に沿うよう物語上の〝添削〟が施され、小津と映画表現の文法を揃えることで両者のイデオロギー的相違を、不作法を超えた悪趣味なまでに際立たせ、本作の宿命的本質を著しくグロテスクなものにしているのだ。

と同時に、小津がテクニカルなマジックを超えて啓示した『東京物語』の神髄を、山田は全く理解していないことが、恥ずかしいほど暴露されることになった。喜劇的なことに山田はその眼で正しくとらえていない『東京物語』の独善的な幻を、愛してやまないのだと言う。否、本当は愛してなどいなくて、松竹入社当時の若き日と寸分たがわず、実はいまだ小津映画を〝保守的〟と軽蔑し続けているのかもしれない。己の美意識を偽ってまで、世界中が一斉に注ぐ眼差しの先にある小津の〝神格〟に目が眩み、左翼芸術家としては誠に滑稽にも、臆面もなく超弩級の権威に迎合してしまったのかもしれない。

山田よ、お前はもともと品がないのだから、格を獲得せんと美の権化の品を模倣しようなどと考えるな。彼の世代の東大卒は例外なく敵性人種だ。彼らは現在なお倒れないどころか頑固な汚れのようにこびりつく戦後体制を巡る内戦の最前衛に憎たらしくも現役バリバリで君臨しておる。

『東京物語』が公開された一九五三年は、世界大戦からの継続的戦争状態となる占領期のむごい追撃戦を終結させるべく日本と連合国で締結した講和条約が発効を迎え、日本が曲がりなりに独立を回復した翌年である。それは希望に満ちた再出発というよりも、七年におよぶ再教育を修了した敗戦国民のなれの果て〝戦後日本人〟の一丁上がりを意味した。武装解除され女をレイプされ、情報を遮断され偽の歴史を押し付けられ、民族の誇りを奪われ、祖先や英霊、親との連続性を断絶させられ、孤独にさまようことになった日本人の魂は、とてつもなく虚無的で残酷になった。要は性根が左翼的になった。

小津の『東京物語』は残酷な映画である。悪意など何処にも不在のままに、運命は絶えず暴力的采配によって不幸へ一方的に導かれる。まるでそれは、肝心要、重大なことを忘れている戦後日本人に対する警鐘であり天罰だ。

しかし自らが不幸である事実にすらいまだ気付かない軍国少年世代は史上まれに見る言論統制下にあって占領軍がもたらした偽りの〝民主主義〟にも、解放感を見い出すことができ、事実それを謳歌していたのであった。かくも不幸な世代は、例え理解はできなくてもなお小津を堪能できてしまうのだろうか?

山田にとって家族とは基本的に呪縛であって、人間たるものはその抑圧から解放されなければならない。だがこの解放運動は徹底されない。徹底できるほど山田は超人的な男ではない。頻繁に旅に出て家族と距離を置くことで主人公に自由人を気取らせるのがせいぜいだ。しかもたまにしか帰ってこない者が一つ屋根の下で暮らす他の家族に比べて人間関係の濃淡に差ができるのは当然なところ疎外感を感じて、同じ家族として平等に扱えと勝手な主張を展開して、結局は甘えが許される家への帰属意識は絶対に捨てないのだ。

山田の『東京家族』は若者に対する説教がやたら目に付く。『東京物語』にはそんな無粋は一切ないので、山田が説教好きだとしか言いようがない。あえてわざわざ主人公の老夫婦に若い世代への嫌みな説教をさせているのだ。オリジナル台本にアカを入れているのだ。

長男が営む町医者の職を継ぐ将来をはなから夢見ない小学生の孫に、こんなに早くあきらめてしもうて、と嘆き、フリーの舞台美術で糊口をしのぐ次男に対し、不安定な職業、そんな腰掛け仕事でなく生業に就け、と難癖と職業差別。

人に説教する暇があったらお前が自己批判せよ! 一方では夢をあきらめるな、他方では夢を追うな、意図的なのかもしれないが、かくも一貫しない態度では説教する資格を疑う前に、彼らは一体何を憂えているというのだろうか? 医師がそんなに偉いのか? 偉いことは偉いと思うが、果たして開業医が舞台美術より堅実な職業なのだろうか? 子供の誰もが夢見、あこがれるほど、魅力的な職業だろうか? 大工や美術にあこがれる子供も医師と負けないくらい多いと思うが。

何より許せないのが山田は映画監督でありながら、身内の裏方スタッフの仕事を平気で貶める無神経だ。まさか己は松竹という大企業の社員だから堅いとでも思ってやしないか。身内だからこそ多少の無礼は許されるという甘えた根性でいるとしたら絶望的だ。世界中どこの誰もが皆共通して挙げる悪徳とは、身内を裏切る行為だ。戦後日本人は人でなしにも、英霊をないがしろにし続け、大東亜戦争の大義を最後まで信じ続けることができなかった。身内を裏切る奴など誰が信用するものか。孤高を気取る己の根拠なきプライドが売国行為を推進するのなら、いったん行為を現象として凝視してみてほしい。国を売る様を美意識が許さないはずだ。しかしあらゆる価値を倒錯させてきた左翼にとっては敗北主義(滅びの美学とは別)も戦略であり、大学卒業から退職までの長い潜伏期間も偽装転向という立派な闘争だ。何でもありが左翼で、結局戦略自体が意味を失って孤独な万人の孤独な万人に対する血で血を洗う闘争となる。

不健全な理屈でうそをごまかし続けていけば現象が見る見る破綻して左翼思想では決して解決されない大問題としての〝死〟が近寄ってくる。そして左翼は最期の最期で最悪の恐怖にさいなまれるのだ。やつらは死にたくないのだった。

山田は人間さまを潜在的な喜劇的存在としてありのままをとらえる表現手法を採用してきた。小津は違う。フォトジェニックであるがそれは映像における倫理的必然の所産だ。

葬儀を終えて亡き母親を送るなり長女が長男に形見分けの相談をしだす。『東京物語』では二人が席を外したところで、次女がその残酷な振る舞いについて言及するのだが、山田は長女を彼女の面前で非難させる。長女は間髪入れず、大切な人の形見の話をして何が悪い、と逆切れる。これは山田の本音に違いない。しかし残念ながら、いい悪いの話なんか誰もしちゃいない。みっともない、はしたない、品性が疑われる、恥ずかしいからやめてくれと言っているのだ。生き方、美学の問題ゆえに本人に言っても仕方がないのであり、つまり山田の添削は実に的外れで恥ずかしいものである。救いようのない誤答である。東大卒と美意識の高低は全く関係ない。ただ東大卒は己のセンスに疑問を持たない傾向があるように思う。しばしば生活に支障を来しかねない厄介な欠点である。

山田には小津が何一つ分かっちゃいない。彼にとって小津は昔のみならず今現在も「ナンセンス」であり続けているのだろう。しかしいくら理解できないからといって、国語の答案のような平易な物語に添削しても仕方ない。

『東京家族』の父親の設定は何と元高校教師。日教組で道徳教育反対運動に尽力した経歴をもつ。最悪である。そんな、万が一左翼教師の子に生まれたとして、親と同じ学校に通い、あまつさえ己の担任教師だったりする人生の最暗黒など想像もしたくないものだが、とにかく戦後最悪の職を全うした彼が結局人生の黄昏に次のような台詞を吐く。

どこで間違ったのだろう?

全部だ、全部。お前らは己の不幸に気付かないまま、罰当たりなことばっかしくさって。特にエリートの頭は始末に負えん。治癒の見込みゼロ。早いとこさっさと死んでくれ! 地獄に堕ちろ
 

(無題)

 投稿者:釣崎清隆  投稿日:2013年 7月13日(土)23時08分56秒
  黙祷  

土左衛門

 投稿者:恵比寿様  投稿日:2013年 6月19日(水)05時17分34秒
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http://livedoor.blogimg.jp/ppp_666/imgs/b/b/bbce4296.jpg

これは東北大震災の被害者の画像らしいのですが
釣崎さんはどう思われますか?
東北の人はあの時期に半そではないといってますが
3枚目の写真に写っている帽子が海上自衛隊のものらしいです
http://image.search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa&p=%E6%B5%B7%E8%87%AA+%E4%BD%9C%E6%A5%AD%E5%B8%BD#mode%3Dsearch
 

新着情報

 投稿者:釣崎清隆  投稿日:2013年 3月21日(木)18時34分41秒
  次回『BLACK SUNDAY/暗い日曜日』は3月31日(日)開催

『新ジャンク(劇場版)/死の復活祭』(90)+『ウェイストランド』+TALK(釣崎清隆×バクシーシ山下)
憂鬱な日曜日の宵。ショックメンタリー2本立てと釣崎の憂国トークで過ごすひととき
@UPLINK ROOM
憂国講演
「今そこにある危機/民間防衛戦争」
出演:釣崎清隆 ※トークのみニコニコ生放送中継予定 Presented by Modern Freaks TV
 

大和魂の美しき発露を絶対に踏みにじるな

 投稿者:釣崎清隆  投稿日:2013年 2月 8日(金)00時19分19秒
  最初の一発を撃たせて肉を切らせる危険を覚悟した実戦にあって一縷の乱れも見せずむしろ遵法バカを誇るかの如くのぞんでおる息づく大和魂に、今こそ国民が応えて真の力を解放して存分に戦ってもらわなければ、この期に及ぶ後悔と幻滅が彼らの強力燃焼する愛国心に致命的な傷を負わせかねない

 

戦う表現主義/BURST論壇の終焉に寄せて

 投稿者:釣崎清隆  投稿日:2012年12月30日(日)00時59分25秒
  二〇一二年十一月十六日に発行された二〇一三年一月号をもって、アウトロー雑誌『BURST』(コアマガジン)の派生誌『TATOO BURST』が最終号を迎え、二〇世紀末の土壇場に生を受け、ミレニアムをまたぐ激動の歴史を駆け抜けて、日本カウンターカルチャーの金字塔を打ち立てたひとつの伝説が正式に終焉を告げた。
それは一九九四年発刊の『CRUSHCITY RIDERS』(平和出版)という前身誌のタイトルからも明らかなように、当初は同発行元の『走り屋 Battle Magazine』増刊の野心的な〝バイカー雑誌〟として企画された。しかしながら編集長のピスケンも副編集長のジャンク・ユージも、別に単車が好きなわけでもメカに詳しいわけでも、単車を所有しているわけでもなく、ピスケンに至っては普通免許すら取得してないのだが、にもかかわらず二人にとって一世一代の勝負を懸ける超野心的な雑誌であったのは、折しも、当時の若者たちがおのおの幼少時から準備してきた〝終末〟という派手なパーティを実践すべき世紀末にあって、世界のアンダーグラウンド・シーンではボヘミアン・アーティストたちがこぞって「バッド・テイスト(悪趣味)」という時代の題目の解釈に躍起になる中で、その器がとびきりのスピードと破壊力とカタルシスでもって世界の有終の美を飾らんとする〝世紀末神風特攻機〟が、限界を晒し始めた死臭漂う世界にとどめを刺すにふさわしい強烈な一撃となるであろう確信があったからだ。
そしてバイカー周辺からタトゥー、ボディピアスといった身体表現から身体改造、ボディ・ハックティビズムへ過激に越境し、先鋭化した表現主義はハードコアから屍体写真、スカトロジーにまでおよび、自由と独立の追究対象はニューエイジ、サタニズム、サイケデリクス、そして媒質としてのハード・ドラッグ、変態性愛にまで開放する超思想を共有せんと暴走族、ギャング、やくざ、右翼に至るまで不良/アウトローというカルチャーの担い手が集結する解放区として翌一九九五年より改めて走り始め、九九年にはついに月刊誌として創刊を迎えた『BURST』は、十年超の長きにわたってハードコアの最尖端に位置付けて〝エッジ・オブ・ザ・センチュリー〟を牽引し、世界でも特異な進化を遂げ、時代の重要な証言者として異色の存在感をもって確固たる磁場に君臨した。
『BURST』は、二〇〇四年の本誌リニューアルにして余命一年の断末魔『DVD BURST』や、刺青、身体改造と並んで雑誌を特徴付ける名物のドラッグに特化するもカルチャーに重点を置き、それでいて提携誌『HighTimes』と異なる独自のイデオロギー展開を示した専門情報誌『BURST HIGH』、絶好調の全能感もピークに達していた二〇〇二年のピスケンの勘違いにして一号のみで終わった平和出版時代の己への原点回帰といえる革命エロ本『SEXBURST』など、『BURST』派生誌のシリーズが盛時の華やかな『BURST』文化圏を彩ったが、雑誌の寿命ともいわれる、ちょうど十年目の二〇〇五年にまず本誌が、二〇〇八年には『BURSTHIGH』が、廃刊に追い込まれ、そしてケツをまくった二人の先輩の代わりにドル箱専門誌『TATOO BURST』という最後の砦を、気丈に勇敢に守り支え続けてきた川崎美穗編集長の女の細腕が、今やついに力尽きくずおれてしまったが、『BURST』ファミリー全誌の休刊・廃刊理由が専ら、公式ウェブサイトなどで川崎女史が無念を忍んで、タトゥー雑誌編集長たる〝男らしさ〟で全責任を一身にのみ込むように、言い訳すまいと素っ気ない四文字熟語で述べたようないわゆる「出版不況」だけに求められようはずもない。
実際に『BURSTHIGH』の廃刊の理由が有害図書指定、つまり大麻種子の入手、栽培方法を掲載して青少年の薬物犯罪を誘発した東京都青少年健全育成条例違反であることが明らかになっている。つまり〝民衆の敵〟となった。
それにしてもGHQが押し付けた大麻取締法に基づく社会問題化の萌芽すらない嫌疑で、しかも被害者が人っ子一人不在の〝犯罪〟を誘発するとして、神聖な表現の自由を踏みにじる行為が許されていいはずがない。石原慎太郎元東京都知事は近年、GHQから押し付けられた日本国憲法を改正するのではなく無効宣言して破棄し、帝国憲法を復元させるべきだと主張しており、同様に占領憲法無効論者である筆者としては、だったらGHQ製の現皇室典範しかり、大麻取締法も無効にすべきで、実は本気で日本を戦後体制から脱却させようとは望んでいない似非タカ派なのではないかと思え、よわい八十歳でいまだに私心で充満し、つまり今さら命が惜しくて義に殉ずる気など全くない卑俗な二流作家なのである。芸術家の端くれなら、やくざものらしく殉国の覚悟ぐらいはできなくてどうする。
つまりは肝心なことを全然理解していないのだ。ただ場の空気や見栄えの良さや保身感情に流されているだけの日本人があまりにも多すぎる。しかも人目に立つ場所に限って目障りに立ちふさがるゾンビだ。
残念ながら版元コアマガジンに限らず本邦の出版社には、御上を敵に回してまで『BURST』を擁護し共に戦う気などさらさらない。〝マリファナ雑誌〟にGOサインを出したのは目先が変わっていて売れるから、それだけだ。
一九六〇年代から我が国では映画や紙媒体が性表現の解放闘争の場として世界的に特異なサブカルチャーを醸成してきた。それは事実だ。しかし敢えて言えば、表現の自由を阻害する元凶としてのボカシやクロマキー、モザイクといった局部にかかる〝ケシ〟が、今世紀に入り、ネットの普及による規制の困難やメイプルソープ裁判の勝利で事実上の解禁がなるまで、頑固に居座り続けてきたという事実、偉そうに革命家を気取る作家たちに限って〝猥褻物表現〟の自由を求める闘争に不真面目で、実はそれどころかおまんこ利権をはじめとする既得権を貪る乞食ですらあったという事実を決して忘れてはならない。米国でカウンター・カルチャーが勃興した六〇年代に、日本では似て非なるサブカルチャー的大衆文化の醸成でとどまったのは、シーンにドラッグが介在しなかったからという意見があるが、筆者は、戦後日本に構築された愚民純粋培養社会における甘えと発狂の恐るべき構造に対する致命的無自覚に理由を求める。でなければ自分たちが侵してきた歴史的無為に対して当の団塊の世代が現にあれだけ厚顔無恥でいられるはずがない。
『BURST』はまさに本邦に生まれた真の〝カウンター〟だった。九〇年代、我々は〝モンド〟というリバイバルから歴史的反省と、全世界と対抗する視線と態度を獲得した。暴走族の風俗には、かねて確信した通り世界を震撼させるパワーがあった。日本のハードコアは世界に誇る掛け替えのない危機遺産だ。信じがたいことだが、今パンクは瀕死状態のまま放置されている。
「服飾と性と麻薬と死のクロスロードマガジン」と自称する『BURST』を特徴付ける要素の一つだった死体写真を毎号カラー見開きで連載していた、東京都や司法当局がマークすべき残酷描写の張本人である筆者の表現に関しては、ピスケン曰く「都庁に呼び出しを食らう度に名指しで嫌みを言われるが、実際に規制対象に挙げられたことはない」と言う。世界にただ一人〝仏さん〟を専門に撮るカメラマンという隠れもないポジションは自覚的戦略的な選択であり、二〇〇八年のメイプルソープ裁判判決にもある通り、芸術と認定される作品として提示される限り、猥褻物はわいせつではなく、同様に死体写真は残虐ではないのである。要するに表現の権利を行使する責任の所在が重要だと考える。筆者は表現の限界の追究に真摯でありたい、それだけなのである。
想定した破局的世紀末は来ず、期せずして汚い暴力と恐怖とプロパガンダの新世紀が訪れた。十年におよんだデフレの惰眠でバブルの蓄えを使い果たすとともに『BURST』がエグゾーストして、我々は玉砕の機会を永久に失った。戦後民主主義詰め込み教育とバブルの申し子としての『BURST』世代と呼んで差し支えない我々は、つるむのがとにかく苦手だったが、せっかくの連帯のチャンスを永久に失って懐疑主義的な砂の群衆に帰した。結局『BURST』は一個の論陣を張ることができなかった。
だがしかし、格闘と放蕩の果てに我々はあまりにも余計なことを知りすぎたがため、不自由で素直になれずにいるかもしれないが、でも我々は知っている。常にこちらのすきをうかがう悪意のまなざしの所在を。この世には己の命よりも大事な守るべきものがあることを。誇りのために命を賭けることの至福を。『BURST』的右翼言論は明らかに国史的必然と捉えうるし、現在進行する政情の激変、保守化に伴い、ともすれば過激な表現規制に傾きがちな社会性向にあるからこそ、情報の自由こそが祖国の維新(レストレーション)を可能ならしめるという原点を忘れず、たとえ最後の一兵になっても戦う表現主義を世に突き付け続けなければならない。
騙されるのはもうこりごりなのだ
 

釣崎清隆

 投稿者:ウェイストランド新潟上陸  投稿日:2012年11月17日(土)00時36分15秒
  本年末ロードショー@新潟シネ・ウィンド
『ウェイストランド』
日時:12/23(日) 25(火) 27(木) 19:00~
23日、終映後、釣崎清隆トーク
新潟・市民映画館 シネ・ウインド
www.wingz.co.jp/cinewind/

【同時上映】『ドキュメント灰野敬二』との日替一週間限定上映

http://www.wasteland.jp

 

祖国民間防衛の方法論 その1

 投稿者:釣崎清隆  投稿日:2012年11月 3日(土)00時52分29秒
  人権は義務と責任が不可分で乱用が許されないことが世界人権宣言採択50周年の1999年採択の人間の義務と責任に関する宣言で明記されたが、米合衆国憲法でも規定される公正で優先的な保障条件の下でなければ、何人も私的使用を奪われかねない人権とは、合衆国に忠誠を誓った米市民にのみ適用されるのだった。社会契約説において神より授かる人権は、世俗主義の日本国憲法で啓蒙主義の罠たる無邪気な個人の尊厳を根拠とした義務や制限を伴わない自然権で、外国人に適用要件を拡大解釈される可能性を許す欠陥を残している。しかし日本の国体を体現する大日本帝国憲法において天皇より授かった人権とは、古来より蓄積された日本慣習法に基づいて第三条で神聖不可侵と規定された表現は、天皇より授かるという社会契約説的解釈をすべきであって従って占領憲法では不完全な基本的人権に関する条文は明治憲法にしかと明記されており、また天皇の神聖不可侵との表現は単独で自分勝手に解読しても無駄なのであった。どうしても天皇主権としか読めないではないか、どう精査しても法の支配が担保されない
欧州立憲君主国の慣習法の読み方では君主の神聖不可侵を君臨すれども親裁せずの原則うぃ定めた条文と解釈する。日本の国体に意義を唱える外国人には第一条で成文化される統治者としての万世一系の天皇の権威も支配を受けると解釈される明治憲法の下で国民が享受する人権を制限する。占領憲法は一刻も早くその無効を宣言して、大日本帝国憲法の復元、改正を実現して真の独立をしかるべき瞬間を定め、最速で劇的に達成させなければならない。一部始終を国民に真摯に語りかけ充分に説明する根気と自信をもって、それぞれの草莽が個人の判断で意識的に啓発し、いざ来る場面までに準備えねばならない。

http://youtu.be/srUbTx7MC8k

 

日本、核非合法化署名を拒否 国連委の16カ国声明案

 投稿者:釣崎清隆  投稿日:2012年11月 3日(土)00時24分16秒
  ニューヨークで開催中の国連総会第1委員会(軍縮)を舞台に、スイスやノルウェーなど核兵器の非人道性を訴える16カ国が「核兵器を非合法化する努力の強化」を促した声明案を作成、日本にも署名を打診したが、日本政府が拒否を決めたことが18日、分かった。複数の日本政府関係者が明らかにした。日本は米国の核戦力を含む「抑止力」に国防を依存する政策をとっているため、核の非合法化を目指す声明案に賛同すれば、論理上、政策的に整合性が取れなくなることが理由。「核の傘」への影響を懸念して、唯一の被爆国政府が核の非人道性を強調する意見表明に同調しなかった格好だ。
2012/10/18 22:29 共同通信
 

Then, which phase are we now, honest or fake?

 投稿者:釣崎清隆  投稿日:2012年10月26日(金)14時15分23秒
  世界には2項対立する価値観が確かにある
互いの絶対不協和から2種の異なる正史を併走させて理想主義的な融和の試みは悉く憎悪に粉砕されてきた。互いに史実を直視した上で記憶を共有できない両者は片や正直を理念として重んじ、もう一方は嘘吐きを恥じない。正直者も実際は嘘を吐くくせに嘘に価値を認めないが故、堂々たる唇が吐く嘘を疑えず自らの記憶に組込んで、それでも正直者の誠実や嘘吐きの現実主義により、忘却の彼方から史実の亡霊が発掘されては科学的に尊重され始原的憎悪の反射に貶められて色褪せて、互いが戦略の具に利用するも一義的には現実として前者の正統を後者の正義が圧倒する。
嘘を非合理と解釈するくせに神話の非合理は認めてあっさり棄てようとする明白な愚挙を止め立てするようなお人良しこそが愚かだと、
亡国の民は皆知っている
 

ベトナムフリーク

 投稿者:前田  投稿日:2012年10月25日(木)10時12分37秒
  ベトナムはいいところ
旅に出る方はこちら↓
http://bandovanhoa.net

http://bandovanhoa.net

 

新イベント情報

 投稿者:釣崎清隆  投稿日:2012年10月23日(火)22時14分58秒
  釣崎清隆ショックメンタリー不定期上映会「BLACK SUNDAY ─ 暗い日曜日」Vol.1
―サパティスモの危機とラテンアメリカの不協和―
『ウェイストランド』『死化粧師オロスコ』上映+トーク

@UPLINK FACTORY
11月4日(日)
◆『死化粧師オロスコ』16:45開場/17:00より上映
◆『ウェイストランド』18:45開場/19:00より上映~トーク
出演:釣崎清隆・中原昌也(作家・ミュージシャン

釣崎監督のショックメンタリー三部作の完結篇『ウェイストランド』のリリースを機に日曜日の最も憂鬱なひとときをショック映画二本立てと釣崎清隆の憂国トークで絶望的に過ごす企画始動
当面は不定期ですが連続企画を目論んでおりますのでよろしくどうぞ
紀念すべき第1回のテーマをラテン・ゴアに定めて『ウェイストランド』の併映は、釣崎が死体写真家としてのキャリア初期にショックメンタリーの可能性の限界を追究した『死化粧師オロスコ』(1999―2005)

http://www.uplink.co.jp/event/2012/3670

 

サパティスモと領土防衛

 投稿者:釣崎清隆  投稿日:2012年10月13日(土)23時36分51秒
  たった10年で見失った戦争の断片は、大量の血で購ったかけがえない桃源郷、危うく本当に失いかねなかった、信じがたくも光の民族史そのものといってよい、勝ち取ったまさにその時に記憶を強く深く刻み付けたはずの尊いふるさとだった
EZLN(サパティスタ民族解放軍)が2006年に第6ラカンドン密林宣言を発表した。10年超のポストモダン闘争の実績に鑑み、ネットを主戦場とした情報戦略を過信して現場では専守防衛を堅持、勢い付いたか非武装平和運動の世界展開を目指してボリビア、エクアドルの先住民への遺伝子非組換トウモロコシの供与や欧州非EU諸国との刺繍、有機コーヒーの貿易で組織化する指針を掲げた。戦略転換は主導する反システム運動が潔癖で理解を得られず連帯は不調に、また「別の世界」創造の理想主義の甘さを、新自由主義を推進する墨PRD左翼政権率いる軍、警察、准軍極右民兵が体現する「資本主義の好戦的特性」が、別世界建設啓蒙活動中の本拠地の皮肉な留守居に付け込んで〝汚い戦争〟のセオリーに基づき停戦協定を治安当局があっさり躊躇なく反故に、へたに破棄し暴発した場合の逆賊の不利を恐れたEZLNは一方的に協定遵守といういびつ、ごろつき民兵どもに土地の外縁からじわじわ侵され、居直られ、収奪され、あえて沈黙した対共同体低強度攻撃の事実が暴露され、いざ頼りにしたい内外シンパの対応の変化、無力、冷淡の衝撃、サパティスタは一過性のブームだった現実を明らかにして、野心的ではあったがフラワーエイジは1年弱で挫折、こうして弛緩が致命的な結果をもたらすことを心得ているマルコス副司令官は2007年12月にサンクリストバルデラスカサスで開催された国際コロキアムにおける第7回発表で、EZLNが軍隊であることを再確認したと明かし、自主防衛の示威と打撃力で賊を押し返しつつ自治区実効支配を再開、電光石火の機転、判断力できわどくも滅亡の危機を回避し、二度と血迷うまいと決意を新たにしたのだった。そして墨政府との偽りの休戦平和は破られ、かえって紛争現場は正常化したのである。
日本人はサパティスタに刮目し、翻って己の置かれている抜き差しならぬ異常な状況に想像力をいたし、流血を含む大きな代償を払ったこの貴重な失敗例から学ばなければならない。
サパティスモの成功モデルを巻き込もうとしている反システム運動は、国家を越境する世界システムを変革するアンチテーゼで、国家や民族を経済に比べればシステム単位を規定するに値せぬ低次元の原理としてはなから否定する。反民族主義と多文化主義が両立する矛盾をあまりにも軽視する傾向がある左翼は、伝統はおろか文化そのものに価値を認めているとは思えない。サパティスモの原点はもちろん原初的生存権を懸けた異議申し立てであるが、同時にマルコスは「それぞれの民族らしく生きる権利」という共同体意志を強く明確に訴えている。唯物史観的発想であるマイノリティなら左翼(障害がある哀れな弱者)、マジョリティなら右翼(邪教を狂信する巨悪)という不思議な種別には共同体の独自性を尊重する誠意や配慮が全く欠片も感じられない。継承文化をあたかも遺伝病のように認識しているのだ。
マルコスはサパティスモを己の姿を反映する鏡に例える。右でも左でもなく紛れもないサパティスモである所以だ。ウォーラステインの目にサパティスタは内外あちこちに面倒なハンデを抱えて先導者の救いの手を求めずには何も立ち行かない決定的に不自由な劣等人種に見えるのかもしれない。まさか内に命のやりとりも辞さない誇りや尊厳を秘めているとは信じまい。進歩的未来にしか興味がない啓蒙家とはかくも身軽で味気ない存在だ。
だからこそ、ほとんど前例がない天然由来〝市民運動〟としてのサパティスモは人類史の奇跡であり、迷える日本人は迷わずそこに己の姿を投影するべきで、彼らを断じて孤立させてはならない責務がある
 

第三の目

 投稿者:NORIKO OHASHI  投稿日:2012年 9月21日(金)15時32分23秒
  お久しぶりです。
昨日早朝何の目で見たのか?尖閣諸島か何処の地か?釣崎さん(私は貴殿と思いました)が襲撃されていたところを見て少々心配していました。
国内で日本人ジャーナリストが殺されたら何処が報道してどうなるのかと不安を覚えた日でした。
北方の領土問題も同様、出来るだけ穏便に解決して頂きたい私処。。
変わらずアグレッシブな作風でお気をつけてご活動下さい。
 

(無題)

 投稿者:釣崎清隆  投稿日:2012年 9月15日(土)04時45分4秒
  かつてのイスラム圏における華々しい社会主義革命の残照を追い続ける自称ジャーナリストはいくら戦争現場で経験を積もうが、だから戦争は絶対にやっちゃいけないという、戦場に行かなくても分かる結論しか導き出せないのうたりんであり、その左翼的な発想により肝心な本質を見事に擦り抜けて結局声の大きい大国のプロパガンダの伝導に我知らず加担してしまう害悪だ。権力が集中する独裁者や王を悪と疑わない思考の癖が彼らを反天皇に駆り立てるが、少しは勉強したらいかがだろう。日本のフリーランスはお世辞にも高学歴とはいえない。だから左翼の英雄だりながらサダムやムアンマルを見殺しにしてしまったのだ。イスラム女性に対して自立した女性であることで優越感を覚え、己の存在が啓蒙的だとうぬぼれているわけだから、殺されて当然なのだ。ムスリムでなくともむかつく。  

バトルフィールド カメラウーマン

 投稿者:ニコラス  投稿日:2012年 8月28日(火)21時25分9秒
  今回の山本さんの
メディアの扱いは釣崎さんにはどう写りましたか?
自分は過剰かと思いました

どこの業界でもそうだと思いますが
マスコミは同業者に好意的なんですよね
 

釣崎新作封切情報

 投稿者:釣崎清隆  投稿日:2012年 8月 2日(木)07時54分22秒
  死体写真/映像作家釣崎清隆の監督最新作Corruptedとの本格コラボのショックメンタリー3部作最終篇『WAISTLAND』がアップリンクX(東京渋谷 9.1~7)第七藝術劇場(大阪十三 9.22~28)を皮切りに順次公開されます。情報拡散よろしくどうぞ  

現場検証

 投稿者:出演料6000万円/話  投稿日:2012年 7月19日(木)20時19分13秒
  貴重な証言ありがとうございます
「デスファイル」や「死化粧師オロスコ」をみた感じ
ブラジルやコロンビアなどは死体を回収だけしているのかと思っていました

 

陰謀について等

 投稿者:釣崎清隆  投稿日:2012年 7月17日(火)23時33分38秒
  下記のコロラド生贄祭祀のデマは元ガーディアン記者のトム・ヘネガンのブログが情報源のようだ。ベンジャミン・フルフォードも元フォーブスであるが2人の誇大妄想狂は金融人脈から導出された偽情報を流布し英MI5、もしくはモサドの情報工作に加担しているという。アレックス・ジョーンズもMI5、モサドの情報工作を担ったが結果的に911の実行犯がシオニストの偽旗作戦であった事実を知らしめてしまったわけで、コロラドの偽情報も現在開催されているボヘミアングローブへの大規模プロテストに繋がることになった。留意すべきは、偽情報にも微妙に事実を内在しており、結果論としてガセでも全否定は危険である。しかしながらフルフォード(古歩道)の日本理解はどうにもお粗末で、アジア工作は初めから失敗せざるを得ない。

日本では異状死体15万体のほとんどが現場の検視で済まされ解剖に回されるのは全体の1割にすぎず、徹底とはほど遠い。世界中の現場検証を見てきた者としては、たとえ怠惰な国民性の犯罪大国であっても、衆人環視という事情もあってその国民性なりにある程度はまじめな検証が行われており、肝要なのは案件の軽重によるメリハリである。米国の捜査にもメリハリがあってCISの徹底ぶりは案件による。よって所轄による最初の見当を間違えば最後まで捜査を誤る。
 

CSI

 投稿者:出演料6000万円/話  投稿日:2012年 7月16日(月)19時09分12秒
  釣崎さんは
死体写真を撮る時、現地の警察と居合わせることが
多いと思いますが、米国ドラマのCSIのように警察は徹底的に
現場検証するのでしょうか

途上国はいい加減で身元だけしらべて終わらせてないのですか?
 

コロラド生贄祭儀事件

 投稿者:釣崎清隆  投稿日:2012年 6月22日(金)01時27分8秒
   世界トップ100の金融ギャングやブッシュ親子がコロラド州デンバーのブラウンパレスホテルと向かい合う古代ナバラ西洋美術館か、ダウンタウンにあるメーソンのロッジ、またはセダリアのキンボール・チェロキー城に本日集い、東部時間6月20日午後9時から明けて21日3時まで6時間、啓蒙主義的智恵の光に輝ける堕天使ルシファーへの生贄として嬰児を捧げその霊力に肖る殺人祭儀の、血腥くも淫靡な乱痴気騒ぎを執行するらしい。以前から囁かれたこの情報は反イルミナティ勢力の治安筋からの漏洩としてまことしやかに拡散流布している。下種の権威主義的悪趣味というものは、尊い犠牲の巻き添えを強いずにはおかない傲慢なある種の律儀さは合理的としても、凡夫が超人へ、または神なき時代の〝現人神〟へ越境すべくプログラムされた装置としてはいかにも大仰で劇場的でしかも安っぽく、人前の表出を阻止できない性癖のように、人間性の眼前に麻薬中毒の病苦のごとく恥ずかしくも事あるごとに立ちはだかる、満腹では狩をしない猛獣より明白で例外なき貪欲に囚われ続けた末に、人に通じる言葉さえ失ったつまらない獣畜の惨めな心持ちで死ぬしかないという大いなる孤独の罠に通ずる。
「合理的・経験的認識が世界を呪術から解放して、因果的メカニズムへの世界の変容を徹底的になしとげてしまうと、宗教的要請との緊張関係はいよいよ決定的となる」(マックス・ウェーバー)
 凡人には無制限の自由の享受に開かれた、アノミーで弛緩しきった茫漠たる荒野に放り出される、無常無限でありながら有限不安の〝ニヒリズム〟は、ダンディズムどころではなく自殺を考えてしまうほど耐え難いものである。放蕩を、脳を溶解させつつも詩的芸術へ昇華させる者が超人である。永劫回帰の冥府魔道をゆく生を絶対肯定し、しかも本邦の武士にあっては、
「二つ二つの場にて、早く死ぬはうに片付くばかりなり(生死二つのうち二者択一を迫られた場合、早く死ぬほうをえらぶということにすぎない)」
と生と同時に死との対峙を斬り死に、自害を問わず自由意志でとらえ、また、
「本気にては大業はならず。気違いになりて死に狂いするまでなり(正気でいては、大仕事を達成することはできない。気ちがいになって、死に狂いするまでである)」
と生死を平等概念でとらえつつ現実には本源的におくれをとる生のために死の覚悟や決断力を利用し、二つ二つの場にて常に死に加担することで意義ある生を構築し、また意義ある死を実際に遂げるわけであるが、
「図にはずれて死にたらば、犬死気違いなり。恥にはならず(事をし損じて死んだとしても、自ら気違いになって選んだ犬死に狂いである。恥ではない)」
とニーチェが神が死んだ時代の虚無を埋めるために仮定したにすぎない「超人」という代用概念の真骨頂たる大肯定のメタフィジカルを実人生で貫いてみせるのだった。西欧近代の理性主義や合理主義が殺した「神」を、武士道という〝超人思想哲学〟が相対化する。
 なぜなら武士道とは死を世界の中心に据えて凝視する本質上これを宗教とよんで差し支えがなく、実際これを神道の脈絡で位置付けるべきで、死ぬための美学を生の美学、哲学に転じた思想体系は神道という多神教の神話叙事詩の素朴かつ絢爛なロマン主義的世界観に倫理的、美学的、哲学的、政治的秘奥を組み込んで〝日本〟にていま現に見る単なるユニークな一先進国を超絶する他次元宇宙のスケールを与えているのだ。
 この思想哲学体系に基づいて、いま一度いわゆる開国から大東亜戦争に至る日本の歩みを追えば、西欧列強の圧迫、恫喝と、脅威を裏返した排日に対する民族自決の矜持と共存共栄の理念を、あまねく日本国民が抱き締めて立派に戦い、大義が大東亜の自由と独立の理想にまで拡張した公へ向かわしめ戦わしめた、と考えるのが自然で筋が通る。しかし、正義を信じて全身全霊で奮戦して多大なる犠牲をも払ってきたにもかかわらず、あまりにも残酷すぎる敗北を喫してしまった者の無力感と虚脱は、大東亜戦争を知らぬ我々が斟酌せずして戦後日本の恥辱的振る舞いと奴隷的惰性を軽々に断じることができないほどに深い痛ましき傷痕であったのだろうと、祖父母たちに思いを寄せ巡らせてこそ想像される。
 脱線が激しいが、最後にこの話でいくばくか軌道修正してみたい。
 2000年10月17日、第三回上海ビエンナーレで支那人前衛芸術家朱昱が、己と協力者との間に生まれた嬰児の食人パフォーマンスの組写真を 発表し、作品がネットや一部マスメディアによって世界に紹介されセンセーションを巻き起こした。言い訳がひどい。生と死の問題の議論を喚起、伝統的倫理観に挑戦、よしんば朱が本気でそう意図したとしても、生死の問題など議論されるはずがない。それを大きく逸脱した人食いの問題だからだ。また人食いという伝統的倫理を作家自らが踏襲しておいて、実際に見せるのは死んだ我が子を料理してただ食うだけの愛想のない図では、オーディエンスに問題意識を啓発している態度ではない。だいたい支那人が人を食うという支那人としては極めてありきたりな行為を写生的に撮影した作品の、何が、芸術なのだ。扇情的ギミックという作家の意志が見えないのは問題だ。作品からは正統性も主張も何も、それが確かに食人なのかすら伝わらず、はっきりと最も罪悪に仕上げたのだ。そのレベル、力量も芸術が何たるかも心得ない、びびりのお騒がせ支那人なのだ。このネットにあふれる凡百の投稿画像レベルの作品は2001年初頭からマレーシア、台湾のイエローペーパーやロットン・ドット・コムなどのショックサイトで紹介されて、そもそも何処の誰かや真偽のほどが議論されて、図らずも作品が芸術として何のメッセージも発言していない事実を露呈したわけだが、その稚拙な故に怪しくも紛らわしい曖昧模糊な本質が災いした最大の問題とは、大小無数の媒体で紹介されたり添付されている解説文がすこぶるいい加減で、場所が台湾だったり韓国だったり、何と仕舞いには舞台が日本という解説が付記された、朝鮮人由来の意図的捏造工作バージョンまで現れて、結局は問題が勃発してはすぐに朱昱の名が表面化して収拾する具合を繰り返した。パフォーマンスアートは体を張る芸術だ。全世界を相手どって命を張る問題意識があってこそ、中共に対してすら体を張れない者が、いったんゾンビ化し火がついた暴民の人食い熱を嘗めるものじゃない。ともあれ二十年ごとの確率で現出する支那では今さら何の新鮮みもない、支那人が外国人にはちょっと珍しい(中共の隠蔽工作のため)支那食文化を演じてみせた単純露悪趣味にすぎない。政治利用するくらいしか利用価値がない駄作ともいえない投稿画像級素人芸だ。『南京1937』(1995年)もそう。『黒い太陽731』(1988年)には多少の執念を感じるが、どうせ途方もない天文学的死者数をでっち上げるのならそれなりに迫力のあるモブシーンを見せてみろよ!俺は見てみたかった。まあ事実に基づかない物語がいかにドラマツルギー上の無理を強い、虚構がスタッフの意欲や情熱を削ぐかということだ。
 朱のような似非芸術家、己の過激な性的趣味をモチーフと勘違いしている極めて危険な変態分子は誠に迷惑な存在だ。こういう手合いは表現の自由を一撃で脅かす社会不安をもたらしかねない残忍さを内部で育成している。そもそも支那人に表現の自由を訴えても仕方ないのだが。
 米国人も支那人も同じ穴のむじな。大岡昇平の『野火』を見よ。主人公の田村一等兵は飢餓のレイテ戦で恒常的な食人の誘惑と戦いながら、とうとう米軍の俘虜になるまでヒトを食わずに通すことができて、心底から神に感謝するのだった。それが日本人なのだ。
 

9.7 釣崎監督最新作『WASTELAND』リリース決定

 投稿者:釣崎清隆  投稿日:2012年 6月20日(水)22時40分7秒
   ショックメンタリスト釣崎清隆が『死化粧師オロスコ』(1999年)、『ジャンクフィルム 釣崎清隆残酷短編集』(2007年)に続いて世界に問う衝撃作は、ついに実現する、関西メタル・ハードコアシーンの雄にしてその名が世界に轟くCorruptedとの本格コラボレーション。彼らが2005年に発表した『El Mundo Frio』に一目惚れした釣崎が、本曲に乗せてこの十年に世界の危険地帯で取材したショッキング・フッテージを縦横無尽にコラージュで紡ぎ、壮麗なる重爆音に仮託して世界の悲劇と絶望をうたう壮大な映像詩巨篇である。

 2001年、9.11で生じた暴力の相貌への違和感により導かれたパレスチナの味気なくも深刻かつ絶望的な清浄無垢は、ラテンアメリカが自ら世界に戦争の汚穢を悪趣味に過剰露出することで、風に乗って伴奏する設計済みの白々しい詭弁が馬脚を現わし、そしてあたりは確実な恐怖で頑固に汚染されていたという事実に気付き、異相を生きるがためそんなたぐいをまったく知覚しない自由で無責任なインドの行者はこのおぞましい世界を救えはしないが、生き残ることはできる。ただ恥を知らないべらぼうなうそは見抜くだろう。欺瞞と恫喝の世界の埒外で適用を逃れるからだ。だが、ただそのように存在しているだけで、自虐苦行によって世界がもたらす災厄をいくらか肩代わりしようと試みているが、世界が救えないどころか、現に苦しんでいる人ただの一人も救えない。ただ、暴力ストレス下で肥大再生産した恐怖をトリガーとした集団ヒステリーの局面は独擅場である。ただそのような存在である。ひたすら祈る存在である。必要とされるから存在し続ける。
 作為で出現させられた人種のるつぼは、ルール無用のバトルロワイヤルのリング空間という必然的な本質をあからさまに露悪し、さらにそれ自体が空間の意志として他者へむやみやたらに牙をむく。戦争がデザインされた人工空間に正統性はない。その究極の目的は〝人食い〟にほかならず、そこには勝者も敗者も、英雄もいない。この世で最も残酷で壮大な茶番である。
 我々の想定より十年遅れて、母なる大地は地獄の停滞にあえぐ日本民族に対し、負のスパイラルの底を打つ大破局を与えたもうた。
 2011年、3.11で生じた猛威は、日本人一人一人すべての胸に、我々が歴史的霊的連続性を営々と生き死んでいく祖国の意志という荘厳なる畏怖の核心を直感させたはずである。世界一長大な民族叙事詩は、大河の一滴として流れゆく国民一人一人が刻むのである。
これでいや応なく歩き始めるのだ。
さあ、パーティーである。

¡2012年9月7日(金)リリース!
WASTELAND
監督・撮影・編集 釣崎清隆
音楽 コラプテッド "El Mundo Frio"(H:G fact)
制作・発売 オロスコ製作委員会 www.wasteland.jp
販売: アップリンク

詳細、紀念イベント等の情報は随時発表していきます

http://www.wasteland.jp

 

死の王 九相詩絵巻

 投稿者:ニコちゃん  投稿日:2012年 6月19日(火)21時18分12秒
  http://www.nicovideo.jp/watch/sm13543413

力作ですね
 

>さきの質問

 投稿者:釣崎清隆  投稿日:2012年 6月17日(日)13時43分17秒
  ブットッゲライト氏とは対談もしてますが、
フツーの人です。変態だと思います。
『死の王』はいいですね『ネクロマンティック』よりずっと
幸運と行動力にシンパシーを感じます。

性的情動は僕のモチーフになっていますが
安易に解消しちゃっちゃあおしまいだと思います。
 

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