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「孟嘗君」

 投稿者:増尾利一  投稿日:2009年10月 3日(土)09時29分7秒
返信・引用 編集済
  5月の中国旅行以降中国の春秋・戦国時代を背景とした歴史ものを読み漁っている。
宮城谷昌光の「孟嘗君」、文庫本5冊を一気に読み終わった。

主人公の生き様は現代の資本主義社会にも十分通じるものがあるからだろう。
孟嘗君の周囲には自然と人が集まってくる、それも相手を、「死ぬときは一緒という気持ちにさせる人柄」、現代にも通じることではないかと思った。
全5巻という長さも苦になるどころか、読み進むほどに、終わりが気になるすばらしい小説だった。
孟嘗君もさることながら、生を受けたばかりで、殺される運命だった孟嘗君を救って育てた豪商「風洪」、主人公にもまして魅力を放っている。

初期作品の古代中国三部作、「天空の空ー小説・伊尹伝」、「王家の風日」、「夏姫春秋」そして「官仲」もぜひ読んでみたい。

*この掲示板は一定期間書き込みがないと、既書き込み1件ごとに、その下部に広告が
 入ってしまう。事務局で書き込んだのがこの部分である。
 皆さんからの投稿を切望してやまない。
 
 

古希雑感 1

 投稿者:布袋  投稿日:2009年 1月28日(水)17時03分2秒
返信・引用
  最近やたらと涙腺が弱くなったみたいで何かと言えば涙が出る。さらに加えて不条理に対しては怒りっぽくなったようである。と言うことを去る場所で話したところ「それは違う!お前の怒りっぽいのはチビの頃からだ!!」と一言で切りすてられてしまった。年のせいで涙腺が緩んだとか怒りっぽくなったとよく言うが本当にそうなのだろうか?
さて、本年の幕開け3ガ日は穏やかであった。近所の稲毛神社でのお御籤は「凶」であったが菩提寺の弘明寺では「大吉」を引き当てたのでここで打ち止めとした。普通の正月とは若干様子が違ったのは不祝儀が3回あったことだ。葬儀が2回で法事が1回であった。葬儀と法事は性格が違うが、「二度有る事は3度有る」と言うので無理やり法事を組み込んで本年の不祝儀完了と締めくくってしまった。葬儀の2回は元上司と元部下のお二人であった。
上司は天寿を全うしたと言えるが、年下の部下(先年定年退職したばかり)が先に逝くと言うのは些か心にこたえるものがあった。それやこれやがあったが、谷中七福神巡りに参加して気分を新たにした。最後の福禄寿の東覚寺が我が家の宗派と同じ真言宗豊山派であったので少々念入りにお参りした。昨年に続いての2回目の七福神巡りであったが年の初めの行事としては心身ともにさわやかになれる手頃な絶好の行事と思える。
話は変わるが、以前に比較し「喜びや感激」の感じ方が「悲しみや怒り」より少なくなったような気がする。即ち、悲しみが一番胸を打つ度合いが大きくすぐ涙ぐんでしまう。それに比べ昔のような大喜びをする度合いが少なくなったような、極端に言うと1年に一回あるかどうかの感じである。今日も新聞を読みひとしきり腹を立てた所である。何のことはない歌舞伎座の改築に関してである。元の計画は現在の歌舞伎座のイメージを主体とした設計であったようだが、都知事の意見でデザイン変更されたようである。歌舞伎座は銭湯みたいで嫌いだ、オペラハウスのようなものが良いと言う好き嫌いの範疇での物言いは、小生の心にカチンと来るものが有った訳である。防災や美観など都市空間の一部としての意見ならカチンもなかったと思うが個人の趣味や好き嫌いであれこれ言われては横暴としか言いようがないと感じた。権力に負けずに信念を通す都知事の姿勢は好きであったが新聞記事を割引して読んでみてもカチンカチンであった。一方TVで「かあべえ」を見ながら涙ぽろぽろである。全くみっともないが外から見てみると、本当は平和な一風景に見えるに違いない。
小生は老齢化に伴う様々な現象を「年のせい」と一括りで言うことは出来ないと思うが、又、反面「年のせい」ほど便利な言い訳言葉はないと感じている。曖昧な表現であるが、これが日本語の良いところだろう。次回「2」で「年のせい」を考えて見たい。 つづく
 

「ある憧憬」

 投稿者:鎌田 良平(31年卒)  投稿日:2009年 1月20日(火)14時09分30秒
返信・引用 編集済
   枯葉の散る頃になるといつも思い出す。特に銀杏並木が黄色に輝いて、少しずつ静かに葉を散らしていくのは、なんとも侘びしい思いがする。
 時折遠い昔のことが交錯して、生きていることすら忘れてしまうことがある。紅葉の季節は何故にこうも心に沁みるものを残して置くのだろうか。

 就職して次の年に1年後輩のS君が同じ下宿屋に入ってきた。彼はB中学校に勤務することになったのである。彼は学生時代に水泳部、山岳部で活動していて、よく知っていた。宮城県白石出身で酒豪で安い宝焼酎で生の大根を小さく切っただけのつまみで、酔えば外へ出て走ってくる。そうするとさらに酔いが増して安くつくという話をよく聞いた。(大根は近くの畑から)同じ下宿にいたK氏(銀行員)と山の話で意気投合していた。
 ある九月末、3人で谷川岳マチガ沢を登ることになった。案内役はS君、私は本格的な山登りは初めてであった。
 この時代は登山ブームで、上野駅のホームは、長蛇の列で、列車の発車時刻の3.4時間前に並ばないと座席の確保が難しい。発車ホームに誘導されると、そこから皆列車の入り口目指して走り出す。この喧騒は何なのかと思った。早く座席を占めようとの思いだけではないか。
 谷川岳登山では、急峻で足場の少ない登りと、案内役が頂上付近で道を迷ってオーバーハングのところを夢中で通ったことと、上野駅の喧騒だけが印象に残っている。
 その次の年は、八ヶ岳の赤岳を数名で清里のテント場から往復した。当時の小海線は静かで登山者も少なかった。清里は鄙びた駅であった。現在の清里は銀座のような人の多い町である。人とぶつかり合いながら歩くような混雑ぶりである。
 そして次の年から北アルプスを歩くようになった。アルプス銀座と言われる燕岳・槍・穂高岳を縦走してますます山歩きに拍車がかかったように思う。槍・穂高や後立山連峰を中心に何度も歩いた。7月下旬より8月上旬のころは、新宿より23:45分の夜行列車で毎年のように松本や信濃四谷(現在は白馬)に行ったのである。
 いつの頃からか、23:45分の新宿発がなくなり、現在は車で近くまで行って駐車場を使用しての山歩きに変わった。定年後は一人歩きで何日も歩いたりである。
 古い日記の中に、思い人への切々とした文章があり、あの頃の心情が山歩きと交錯していることなのかと。
 晩秋は冷たい風が吹く。枯葉が散る。枯れ葉は散って風に飛ばされていく。

 今年の年賀状に、教え子から4人くらいで昔話をしたいからセッティングするので1泊で飲みに来て欲しいと言ってきた。昔のロマンスの話しでもしてこようかと。

これでいいのかな・・・。(本稿は会員のペンネームでの投稿です=事務局)

添付写真:(上)槍、穂高の遠景 (下)春山の唐松岳
 

オンラインストレージの説明

 投稿者:事務局(増尾)  投稿日:2008年11月23日(日)15時34分33秒
返信・引用 編集済
  この欄に掲載しておりましたオンラインストレージの説明は「31会Digitalサロン」に移動しました。(詳しくは下記「31会Digitalサロン」のURLをクリックして、そちらを参照願います)

  http://6021.teacup.com/31kaikakekomidera/bbs
 

そして70年

 投稿者:横須賀 俊夫(4組)  投稿日:2008年11月11日(火)15時07分37秒
返信・引用 編集済
   ある日突然「31会の古稀を祝わないか?」と某氏より連絡があった。場所の予定を聞くと東京でやると言う。還暦の祝いも素通りした小生であったが、水戸のS氏に打診したところ「出席」の返事が来た。そして小生も出席してみる気になった。

 小野田氏の話は、本で読むのとは一味違い、自分に与えられた役割を果たすべく「生きる」と言う行為にすさましい執念を感じた。これを企画してくれた方に感謝したい。
少なくともそんな環境の中で小野田氏は、置かれた環境に適応し与えられた使命を全うすべく、生き方を変えた行動に徹したのに違いないと感じた。
生きて使命を全うすると言う執念はイコール、生きて日本に帰ると言う事だから最善の選択肢であったろうと感じた。
 自己中心的な現代の人々が、この環境に放り込まれた時どういう生き方をするのか見てみたいと思ったら急に可笑しくなった。たぶん、いろんな茶番劇が見られるに違いない。
夢にまで見た日本に帰国したのち、小野田氏は日本の環境の変化の大きさにびっくりしたようである。特に心無いマスコミの連中には上げられたり落とされたりで大変な目にあったようだ。平和ボケした一部のマスコミほど手に負えないものは無いようだ。自由だ権利だと主張し、他人の自由と権利を踏みにじる行為は今も昔も変わらないようだと感じた。

 それはそれとして、古希の会ではいろんな人に会えて楽しかった。不思議なもので幾つになっても同窓会と言うとその年代の気持ちになってしまい、言葉使いまで昔に戻ってしまいご容赦願いたい。残念なことは、久しぶりに参加したのに顔を見ただけでは名前が出てこず、いちいち周りの人に聞いてから行動を起こすと言う有様だった。しかし、みんなも似たような状況だったらしく、誰だか判ると瞬間に18歳に戻ってくれたのには嬉しかった。幸い旧知の菅谷君の隣に席を取ることが出来たため、より、楽しい時間だった。
帰りの電車の中で車窓をぼんやり眺めていたら、自分の70年を振り返っていた。いろいろな思い出が無差別に通り過ぎて行った。ふと、車窓に目を凝らしたとき、見える街の景色に違和感を持った。忙しげにせかせか歩きの町の人、自動車の洪水等々、無機質な風景に命を感じることが出来なかった。昔は、町の人の顔にもっと笑顔が有ったようだが・・。
 川崎に着き、人と自転車に溢れかえる歩道をてくてくと我が家に向かった。
小生が川崎に来てから10年に成る。来た当時は帰路にはいろんなお店屋さんがあったが、今はマンションが立ち並び小生もただひたすらに足を運ぶ町の人になってしまった。
私たちはとても大切なものを忘れてきたような気がする。単なる「人」ではなく「人間」に戻り、思いやりを持って残る人生を思う存分生きたいと感じた。
 
    (HP事務局) 横須賀君とは栗原、澤畑、浜野の諸君(全員4組)とともに、水戸二中以来50年以上もの付き合いになる(浜野君とは一高時代から)。中学・高校とも同じ組になったことはなかったし、大学もみな別だったが、お互い何か肝胆相照らすものがあったのだろう。冠婚葬祭を含め今でも家族ぐるみの付き合いをさせてもらっている。横須賀君は、奥様を亡くされたり、自分自身も心筋梗塞で倒れ、三途の川を渡りかけた所で閻魔様に追い返されたりと、波乱万丈の人生を送ってきた。今はすっかり回復し、旧職場関係会社の社員教育や趣味の写真などで悠々自適の毎日を過ごしているようで誠に喜ばしい限りである。
いささかわが田に水を引く返信になってしまいましたがお許しを。(増尾記)

添付写真:上海:「豫園」にて。栗原君、増尾と。
 

七十の手習い 「囲碁」

 投稿者:菅谷 健造(4組)  投稿日:2008年11月11日(火)10時20分31秒
返信・引用 編集済
   囲碁を覚えたいと思ったきっかけは、野球部の集まりがあるといつも栄蔵、通良、小林純君等が碁盤を囲んでいるのを見て、「いつかは仲間に入りたい」と思ったからです。
 退職後、ある時後輩の朝日君(36年卒)が、「暇なんだから碁を覚えなさいよ」と、田村竜騎兵著「やさしい定石教えます」という碁の本をいきなり送ってきた。これはやるしかないなと観念し、碁との本格的な付き合いになったわけです。まあ、碁を始めてよかったのか悪かったのか、今となっては後の祭りとしか言いようもないが、対戦相手が皆さん上級者ばかりで、置碁でハンディがあるにもかかわらずいつも負けてばかりで悔しい思いをしています。しかし、それもその時ばかりでまた打ちたくなる魅力に負けてヘボ碁を続けています。最近ではテレビの囲碁番組を欠かさず見るようになりました。
 31会の滝田君(3組)から、「囲碁の格言」の大切さを教わりました。ちなみに、滝田君は公民館囲碁の最上級者(九段)に何目か置かせて打たせるほどのプロ級の腕前です。

 思うに、老後、球友の栄蔵君と碁を打つのが夢でしたが、今はそれも叶わぬ夢となってしまったことが残念でなりません。

 ◆現在の囲碁状況

  見和公民館囲碁クラブ(入会2年目)
     第1日曜日
     第4土曜日  月2回
     (31会関係では、庄司君(8組)5段、関内君(5組)初段)

 最近、芸文センター内にある元勤務先の旧友会館で毎週水曜日に横須賀信次君(6組)や元同僚らと碁を楽しんでいます。
 
    (HP事務局) すばらしい古希の時をすごしていますね。趣味の囲碁を通しての旧友との交わり、これに勝るものはありませんね。
最近奥様とともに、パソコン教室に行き、勉強中とお聞きしましたが進み具合はいかがでしょうか・・。また皆さんに知らせてください。
私は碁はまったくできませんが、一緒にパソコンを楽しみましょう。

甲子園に一緒に行った深澤栄蔵君との対戦は、暫らくお預けということにしてもらって・・・!!

添付写真:31会古希の会の席で横須賀君(4組、右)と
 

安斎君(8組)の写真

 投稿者:事務局(増尾)  投稿日:2008年11月 9日(日)13時40分30秒
返信・引用 編集済
   古希の会の当日、会場内でニコンの高級一眼レフデジカメを片手に写真を撮ってくれていた安斎君に気づかれた方も多かったことでしょう。昨日、水戸の小沼さんを通して、彼が撮ってくれた画像200枚ほどをCDに焼いて送っていただきました。1000万画素程度(3872×2592pix:1枚で2.5Mb前後)で撮っておられますので、全部で1ギガ(Gb)に近い容量でした。
 なお、添付した写真は800×800に圧縮してありますが、2L判くらいでしたら現像されても差し支えないと思います。

 ご本人の了解の下、書き込みの中にも適宜安斎君の写真を使わせていただきました。

 私が撮れなかった乾杯の写真と女性軍+約1名が小野田さんご夫妻の席で一緒に撮った画像を添付してみましたのでご覧ください。画像を私の入門機と比較して、発色が似ているのには驚きました。

 せっかく撮っていただいた写真ですから、後日この中から50枚ほどピックアップし、「オンラインストレージ」を利用して、皆さまにもお届けしようと思っています。
 

古来、稀なる年齢とか

 投稿者:枝 弘道(8組)  投稿日:2008年11月 5日(水)14時04分7秒
返信・引用 編集済
   テニスの例会の折、とぼけた顔で、しかもまじめに「さー、Aさん、オムツを取り替えますよね・・と言われるのですよね」といったら、Aさんは、「私嫌だわ。そいう風になったら」。僕は天井だけ見ているようになったら嫌だし、第一生きている価値が無いからその少し前に青木が原に入って行くんだ」。別の人が、「枝さんがテニスに来なくなったら青木が原に探しに行くしかないな」と、なんとも暗い話ばかりが続いて、でも、皆愉快な冗談だと笑っていた。誰も元気なうちは、まだ先があると思っているんでしょう。

 10月10日の「古希の会」では、小野田さんの講演が終わって席に着いたとき、個人的に質問をしに行った。「30年間終戦を知らずにルバングで生活し、日本に帰国したら、小野田さんにとって戦争とはどういうものだったんでしょうか」。小野田さん曰く、「正義と正義の戦いですね」。日中戦争から太平洋戦争の経緯を考えると、平和の中で暮らした私には何か異な感情を持った。「鉄砲弾は前からばかりは来ないからな」(兵隊の訓練の問題)とか、「捕虜になるより死を選べ」とか。結城一高在職中に教務主任(東大卒、商社マン)から、「戦時物資を戦地に送る船が東南アジアの港に着くと、船を沈没させられたように報告し、戦時物資を横流しした上司がいて、あんな畜生奴、悪いことをやって」などなど。片や「正義と正義の戦い」と。日本軍の弱点は明白であったのに。

 これを書くついでに言葉遊びを。「古来、稀なる年齢」の年齢に「人」とか「生き方」とか「大金」とかを入れていろいろ想像してみたら、なんとなく世界が少しばかりひろがりを見せて面白い。日本人の平均寿命は男78歳女85歳。古希は、次は90歳か100歳か。

 私のテニスボランティアはまだ続いている。筑西市(下館市、協和町、明野町、関城町が合併)の総合公園まで水戸から1時間20分余り、週に一度、9時から12時まで3時間ボールを出して指導。同窓のK君、最近ひたちなか市津田で一緒にテニスを楽しんでいるが、「筑西市まで行っていくら入る?」。「ボランティアだから交通費も自前、」出るだけ。指導であっても一緒にボールを打ちながらの3時間であるので、かなり運動量はある。
入院して寝たきりになり、治療費が出て行くのとボランティアで出ていくのと同じと考えれば、健康というものが残るだけいいのではないかと思っている。
何よりも受講生がテニスを楽しむことができることの方が嬉しい。すでに二つのグループができて、自主的に活動している。古希を過ぎた方も多い。

 私の三男坊、1浪して埼玉大工学部に合格。「しかし、あんな易しいところには行かない」という。2浪、早稲田の理工、東理大理工と工学部を受験、北大工学部に合格。「早稲田の工学部に行くんだろう」。「早稲田なんかには行かない」。そして北海道に行ってしまった。夏休みに帰省したら、競技スキー部に入ったという。小さいころからスキーには連れて行ったからだろうと。
 4年次、冬休み前、スキーで肘を骨折、ギプスをしてその後も練習をしていたらしい。明日は妙高スキー場(新潟)に行き、インカレ(全日本学生選手権大会)に出場するという日の夕方に電話がかかってきた。「今日練習でスキーを盗まれてしまった。大学院も不合格、もう嫌になったよ」。弱気な言葉である。「まだギプスをしているんだろう」。「している」。「それでも大会に出るのか」、「最後だから出たいけどどうしようもない・・・」消え入りそうな様子。私は、「運動具店は閉まっていても電話で連絡して調達するかしかない」と言って電話を切った。後は本人に任せるしかない。後日その話をしたらギプスをしたままで大会に出場したという。その後、筑波大大学院(環境化学科)に入学、デザイン建築をやりたいというので東欧(ベルリン、ドレスデン、プラハ、ウィーン、ブダペスト)へ連れて行った。次の年パリに、その次の年にアテネ、トルコに行ったらしい。いわゆるバッグパッカーで。

 古希まででなくても、自分の生きたい様にしてくれればいいと言ってやりたい。
 
    (HP事務局) 毎週水戸から筑西市まで1時間20分もかけてテニスコーチのボランティア、恐れ入りました。前にもリレー随筆欄で「田舎教師」と題してシリーズで書いていただきましたが、今回の息子さんとの交わりの文章を読み、考えさせられました。
「古希まででなくても、自分の生きたい様にしてくれればいいと言ってやりたい。」という最後の言葉、同じ男の子を育てたものとしてまったく同感です。
31OB歩く会、今年も大盛況だったようですね。私も、体が動く限り一駅でも二駅でも参加したいと思います。また迷惑をおかけしますがよろしくお願いします。

写真:「増尾君、そっちじゃないよ・・」。
すっかりばてて皆んなと離れてしまい、一番最後を歩いていた私を、待っていてくれた枝君が誘導してくれた。(19年10月の歩く会で)
 

「オバンですⅢ」を逆から読む

 投稿者:HP事務局  投稿日:2008年11月 4日(火)14時51分21秒
返信・引用 編集済
  「オバンですⅢ」の設定は、1ページの表示件数が10件を超えると自動的に次のページに進む設定になっています。表示は、新しく書き込まれたもの(最後に書いたもの)が一番上に表示されます。
これとは逆に一番最初の書き込みから見たいという場合は次のようにしてください。

 ・今開いている画面で、右端上にあるスライダーをマウスでつまんで一番下まで
  下げてください。
 ・そうすると下に貼り付けた画面が出てきます。
 ・過去順の左側の○をクリックし、「表示切替」をクリックしてください。

これで最初に書いたものが一番上に表示されます。(表示の順番が逆になる)
本欄も皆さまからの書き込みが増えたため、3ページ目に入りましたが、適宜切り替えながらご覧ください。

なお、本日から広告が入る位置を、トップ記事(一番上の書き込み)の下部にのみ入れる設定に変更しました。(teacup社の無料の掲示版を利用していますので、広告が入るのは避けられないのですが、少しでも見やすくできればと思いまして。オバンですⅡも同じにしました。)
 

「古希を祝う」に思う

 投稿者:鈴木 秀雄(1組)  投稿日:2008年11月 3日(月)21時16分47秒
返信・引用 編集済
  同窓会の副題として「古希を祝う」が付いています。或る同窓生の仲間から、昨年の統計によると平均寿命は男性で79.19、女性で85.99の時代に70歳は単なる通過点であり、果たして古希は祝う程の事柄かとの指摘を受けました。確かに平均余命も70歳は男性で14年プラス、女性で19年なにがしの時代に、当を得た尤もな指摘だと思います。念の為、われわれが生を受けた昭和12年の平均寿命はどうであったか疑問に思い、厚生労働省の統計課に問合せたところ、昭和10年の統計が残っておりまして、それによるとビックリすることには、男性46.92、女性49.63とあります。多分昭和12年も大同小異ではなかったかと考えられます。男女の差はありますが、40歳の人の平均余命は15年程度であったことが、昭和15年頃に制定された年功賃金制、終身雇用制度に影響したと考えられます。同じ統計によると、われわれが高等学校を卒業した昭和31年の平均寿命は、男性63.60、女性67.75であり、戦後終始一貫して平均寿命が延び続け、現在は世界有数の長寿国を誇っていることが分かります。これは医学の進歩、国民皆保険制度の導入、日本的食生活などが背景と言われておりますが、戦後ずっと平和な社会が続いて来たことが根幹にある、つまり平和の配当をわれわれが享受し続けていることを感謝すべきでしょう。そうした意味でも古希を祝う価値は十分にあるものと愚考します。

現在の平均寿命が80歳とすれば今の70歳は戦後直後でいえば50代後半という年齢かも知れません。常識的には仕事を離れ、引退後の生活を楽しむ年齢でありましょう。然し、60歳定年とか65歳から年金が支給されるというような日本的仕組みは、戦後の状況に大きな影響を受けて作られたもので、60歳はたまた65歳を超えても働きたい人には働けるような仕組みの構築が必要です。そうした意味で「高齢者」の定義を見直さなければなりません。昨今定年制を残しながら、働きたい希望がありスペシャルティーを持つ従業員に職場を与える企業が増えてきているのは当然の現象であります。その場合年功賃金制ではなく仕事に応じて賃金を払う仕組みが導入さています。年金もスエーデン型の高齢者の就労インセンティブを高めるような制度設計がなされる必要があります。年金支給開始の年齢を個人が選べるようにし、支給開始が遅れるほど毎月より高額の年金が支給されるようになります。これから確実に人が足りなくなる分野、例えば介護の分野。比較的若い高齢者が年を取った高齢者の面倒を見る仕組みは一つのあり方でしょう。介護の社会的ネットワークを構築し、そこに雇用としての若い高齢者の労働市場を育成する必要があります。教育現場も60代の方が活躍できる分野ではありませんか。エンジニアリングの仕事をしてきた人、金融業に従事してきた人、実業に従事してきた人の講義は説得力があります。海外生活の経験のある高齢者が海外の社会、歴史、政治経済などを教えた方が臨場感があるでしょう。役所も合理化を図るのなら終身雇用の職員を減らし高齢者にアウトソーシングする方法があるのでは無いですか。少子高齢化を迎えた時代に、どうすれば日本の効率性を維持し生産性を向上して行くかという重要課題は、高齢者という素晴らしいリソーシズを上手に使うか否かに懸かっていると言って過言でないと考えます。
 
    (HP事務局) ニューヨークをはじめ長く証券業界の中枢におられた貴兄の、少子高齢化社会を迎えたわが国の労働市場の育成に関する貴重な提言、升添大臣や厚労省の役人にも読んでもらいたいほどです。すばらしい論文と感服しました。アメリカの著名な投資家ジム・ロジャース氏も、株式新聞紙上で、「人類史上、人口が減少して発展した国は皆無だ。日本政府は公共投資をやめて、その予算をすべて人口減少問題の解決に振り向けるべきではないか・・」と提言していましたね。

貴文を読みながら、我々70歳の平均余命が14年ということは、あと10年余を、好むと好まざるとにかかわらず生き続けなければならないわけです。年金暮らしの身で贅沢は出来ないまでも、友人との関係を大切にし、パソコンに親しみながらボケ防止に努め、健康維持を図っていきたいと念じています。

(添付写真:「古希の会」の総合司会を務めた鈴木君(左)、小野田さんご夫妻・増尾と)
 

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